ケモノノサガ
「だって、ここに俺がずっといても、綾[アヤ]さんの為にはならないじゃん」
「確かに、金にはならないですね」
「うるさい。うわばみ!」
「ソレはほめ言葉と受け取っておきます」
うわばみ、と呼ばれて肩をすくめる大学生の店員は、ずっとロックグラスを片手に仕事をしている。
中身は、ウイスキーだろうか。
「…瑛[エイ]、あんまり飲みすぎないでね」
岬に綾さんと呼ばれたマスターも、少々笑顔が引きつっていた。
美味い料理と酒、弾む会話で思いもかけない楽しい時間になった。
客が増えて来た頃、そろそろ出るよと岬がカウンターに向かって言ったので、財布を取り出す。
「あ。静流さんはいいから。俺の奢り」
「でも」
かなり食べたし、明らかにわたしの方が飲んでいた。
「昨日の、お礼」
昨日、という言葉にわたしが反応すると、岬はばつが悪そうに右眉の上を掻いた。
「あと、恩人に無礼なことをしたお詫び」
「恩人、って…。わたしは、何も」
結局、傷だらけの彼を放置して帰ったのだから、恩人呼ばわりされる筋合いはない。
無礼なことは、確かにされたが。
岬は金を払って、わたしを店の外へと促した。
冷たい冬の風の吹き荒れる中、彼は言う。
「俺、マジで昨日、あそこで死ぬんだと思った。一瞬、意識なかったし。全身、信じられないくらい痛かった」
風の音をぬって、岬の声が鼓膜に響く。
雪のように透き通った声は、寒い冬の夜にぴったりだと思った。
「でも、静流さんに声掛けられて、ムリヤリだったけど、…キスして」
岬の声が、近づいてくる。
「生き返れたから」
目の前にある、まだ傷の残る顔。
その真剣な表情に、思わず見蕩れた。
「もう一度会って、ちゃんと、お礼がしたかったんだ」
差し出された黒皮の名刺ケースを、わたしが反射的に手を出して受け取ると。
「じゃ、ね」
岬はあっけない程、簡単に背を向けた。
これで、終わり?
どこか不満に思っている自分がいた。
逃げられると、追いたくなる。
思えばすでに。
この時から、わたしは岬の巧みな術中に陥っていたのかも知れない。
←[*] 4/17 [#]→
目次へ
MAIN