ケモノノサガ
翌日は朝から仕事に集中できなかった。
気分転換に、と勤務先の薬局の、少し離れた所にある自販機でコーヒーを買い、缶を開ける。
「昨日のことは、ライオンにでも噛まれたと思って、忘れよう…うん」
「ライオンに噛まれたら、死んじゃうと思いますよ?」
缶に口をつけるのをやめ、後ろを振り返ると、同僚の女の子が立っていた。
「ヘンな芹沢[セリザワ]さん。独り言なんて珍しい」
クスクスと女性特有の柔らかな声で笑いながら、彼女は自販機のお茶のボタンを押した。
「そうだね。普通はライオンに噛まれたら…」
「昨日、何かあったんですか?」
忘年会のあと、帰ろうとしていたら、路地で男に唇を奪われました。
なんて、情けない話はできるはずもなく。
何でもないよ、とはぐらかして、彼女と並んで薬局へと戻る。
自動ドアが開き、カウンターの前に立っていた男が振り向いた瞬間、口の中に血の味が広がった気がした。
「あ!みっけ」
金の髪を、今日は整えて。
グレーのシャツに身を包み、細身の黒いパンツを着こなす彼は、昨夜路地裏に倒れていた人物と同じには見えない。
にこりと整った顔を綻ばせて。
「芹沢 静流[シズル]さん。昨日はどうも」
彼が知るはずもない、わたしの名前を呼ぶ。
「何で、ここに」
驚くわたしに白い紙を差し出して、何もなかったように客の顔をする。
「薬、もらいに来ました」
「……」
無言で処方箋を受け取り、内容を確認すると、思った通り、痛み止めと湿布薬だった。
処方箋の左上、印刷された名前を確認すると、そこには岬 誠之介[ミサキ セイノスケ]の文字。
知らない名前だ。
というか、この風体で、誠之介?
似合わない名前だなどと考えながら、薬を用意して袋に入れ、彼の名前を呼ぶ。
「どうして、ここに?」
カウンターを挟んで対面し、なるべく安全距離を保ちながらも、声を低くする。
「知りたい?」
先ほどとは違う、どこか得意げな笑いで、シャツの胸ポケットから、黒皮の名刺ケースを取り出す岬 誠之介。
見覚えのあるソレに、自分の間抜けさを呪った。
「…わざわざ届けにきてくれて、どうもありがとうございます」
慇懃無礼に振る舞って、手を伸ばす。
が。
「返して欲しかったら、今夜十時までに、駅の近くにある『フリーズ』って店に来て」
岬はひらりとわたしの手をかわし、薬の入った袋をさっと取り上げると、早口で言った。
抗議する前に、鼻歌を歌いながら自動ドアを通り抜けて行った彼の背中を、呆然と見送ることしかできなかった。
そんなわたしに、事の次第を隠れて見ていた、先ほどの女性の同僚が訴えてくる。
「芹沢さぁん…さっきの名刺ケース」
「うん…あとで、返してもらいに行くよ」
この際中身はどうでも良い。
ただ、名刺ケースは返してもらわなければ。
贈られた本人に、目の前で他人の手にあるのを見られてしまっては。
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