SUITの誘惑
忘れていったんだから、大丈夫だろう、と。
かけてあったスーツをハンガーからはずして、羽織ってみた。
「ちゃんと、元通りにしておけば、大丈夫」
自分に言い聞かせるようにして、玄関へ小走りに駆ける。
暁人さんがさっき、ここでそうしたようにビシッと襟を正してみた。
「ぶかぶかだぁ…」
丈や腰回りはもちろん、袖も僕の手がすっぽり隠れてしまうほどに長い。
たらんと折れ曲がった、袖の長い部分をぷらぷらさせると、かすかに暁人さんの香りがした。
ふふっ、と鏡の中の僕が微笑んだ瞬間、先ほどかけられたばかりのカギが、音を立てる。
びくりと硬直する僕の目の前、開かれたドアから顔を出したのは、暁人さん。
「クリーニングに出すスーツ、忘れたから取りに戻ったんだけど…」
ぶかぶかのスーツに身を包んだ僕を、目を細めてじっと見つめてくる。
「ご、めんなさい!あのっ、僕、すぐに脱ぐから!」
慌ててジャケットを脱ごうとする僕を、暁人さんの大きな手が制する。
「暁人さん…?」
「…いい」
「え?」
「あ、いや。クリーニングに出すのは、明日にするから」
いいの?と首を傾げる。
だって、わざわざ取りに帰ってきたのに。
「いいんだ。そのかわり、菫」
暁人さんが僕の耳元で、低い声で囁く。
「今夜はその格好でエッチしよう」
その囁きに、一瞬にして真っ赤になる僕の耳。
「!!…っ。な、何てこと言うのっ!朝からっ。暁人さんのばかー!」
叫んだ僕に、悪戯めいた笑顔を見せて、暁人さんは逃げるようにドアの外へと消えていった。
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