羽搏くために捨てたもの
貴族の屋敷には立派な庭がつきもので、美しい庭には腕のある庭師が必要だ。
都の貴族がこぞって欲しがる庭師の中には、年長の者もいれば年若の者もいる。
彼は、とある庭師が好きだった。
虫に怯えて身動きが取れない所を、庭師の決まりに逆らって助けてくれた。
風に舞う黒い翅を美しいと褒めてくれた。
よく日に焼けた顔に品よく並んだ白い歯が映えるのは、彼の姿を見つけて笑顔になった時。
草木を扱う時の真剣な眼差しの横顔にもつい見惚れてしまう。
けれど、彼の身の上ではこの想いがどうにもならないと充分に解っている。
蝶の分際で人に恋をするなど、あってはならないこと。
それでもその庭師が牡丹の花の手入れをしていれば、ひらひらと飛んで行ってこれ見よがしに蜜を吸う。
彼はその姿を庭師に見てもらえるだけで、満ち足りていた。
そう思っていた頃、仲間が彼に教えてくれた。
百年に一度咲く蘭の花の蜜を摂れば人の姿に成れるらしい、と。
彼はその話を聞くや否や都中を飛び回って、その花を探した。
一瞬でも良い。
人の姿になって庭師に逢いたい。
強い想いで目的の花を見つけ、人の姿に成った一羽の蝶。
そして今、彼は例の牡丹の花の葉陰から庭師を見つめている。
人の目で見つめると、庭師はすぐに彼の姿に気づいてくれた。
「こんにちは」
と声をかけると、驚きながらも挨拶を返してくれる。
「ずっと、あなたに言いたいことがあったんです」
震える声で、彼は言葉を絞り出す。
「とても、綺麗な花を育ててくれて、ありがとう」
大輪の花のように、彼の胸の中で咲いていた想い。
今にも溢れ出しそうな庭師に対する恋心を彼はぐっと我慢する。
「頑張って下さいね」
それだけ残して、牡丹の茂みに飛び込む。
庭師は何か言いたげに彼の背中を追ったが、花の隙間から躍り出た蝶に眼を奪われて、見失ってしまった。
想いを成就させればその瞬間に消えてしまうと蘭の花に忠告されていたから。
所詮はただの羽虫。
人に恋をしたのが馬鹿だったと、蝶は諦めてしまった。
そうして彼は、今日も花を喰らう。
愛しい人の育てた糧を。
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