夢の切先
武志(たけし)は最近、家の中で妙な気配を感じるようになった。
それは決まって夜で、家の者が全員寝静まる頃。
床の中でふと眼を覚ますと、まだ肌寒い夜気にいつもと違う匂いの空気が混じっている。
漆黒の布地に一条入った錦糸の縞のように、その気配は武志の脳裏にこびりついて消えてくれない。
それで今夜は、その気配の正体を確かめてやろうと床の上に胡座をかいて待っていた。
初夏の風が、薄手の寝間着に心地よい。
遠く、裏庭の方からは庭師の手で造園された山水の音が聞こえてくる。
眼を瞑って、その音に聴き入っていたら、武志の上体はいつの間にか舟を漕ぐように揺れていた。
異質な気配にハッと目を開け、そろりと部屋を出る。
弟の寝ている部屋の方向から軽い足音を聞きつけて、忍び足でそちらへ急いだ。
「誰だ」
裏庭に面した廊下で見つけた小柄な背中に誰何すると、その人物は振り返りもせずにひらりと庭へ降りていく。
素足のまま、武志も後を追って彼に倣う。
迷いなく裏庭の杜若園に足を踏み入れて行った。
造園された細い水の流れに架けられた八つ橋を器用に渡って、振り向く人影。
「豪気なこと。ついこの間まで、この橋が渡れずに泣いていたのにねえ」
不思議な微笑みで、彼は言う。
武志よりも年若に見えるような気もするし、夜陰の悪戯か大人びて見えるような気もする。
武志が怯んだのは、橋を渡るのが怖かったからではない。
泣いていたのは、もう随分昔の事だ。
それを知っている彼に戸惑いを感じて二の足を踏んでいると、小川を隔ててまた笑う気配がした。
「また泣くのかえ?この葉が刃のようでこわい、と」
ツ、と杜若の葉先を撫でる青白い指。
水面に映った月の明かりでは、花の蕾はほとんど闇に沈んで見える。
「こわくなんかない」
嘘だ。
自分を奮い立たせるために、拳を握って目の前の青年を見つめた。
細い流れのあちらとこちら。
超えてしまえば戻れぬようで、おそろしかった。
「・・・おいでな」
妖艶な笑みに挑発されて、武志は一線を越える。
触れれば切られそうな葉先を躱して、青年の腕が伸びてくる。
頬に触れた指も、触れ合った唇も。
思いがけないほど軽やかで、柔らかい。
自分から腕を伸ばして引き締まった身体を撫でると、艶めいた吐息が聴こえてくる。
こそばゆい息を耳に吹きかけられて、我を忘れてしまったように何度も彼に口づけをした。
翌朝。
目覚めた武志は昨夜の出来事を思い返して首を捻った。
寝屋に戻った覚えもないのに、自分の体は床の中。
ただ、身体中に爪で引っ掻いたような腫れが幾つも滲んで、情事の痕を残していた。
痺れるような痛みに水辺で抱いた青年を想って、武志はそっとその赤いきずをなぞる。
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