花瞼にしのぶ

晴れた日の朝、四郎は目的地を目指して駆けていた。

昨日までの雨のせいで、空気は肌に纏わりつくように重い。
下草の生い繁る、靄のかかった小道を走る。

近所の婆が世話をしている藤棚までたどり着き、ほっと胸を撫で下ろした。

しっとりとした朝の空気を纏って揺れる藤波は夢の景色のように美しい。

藤棚の下に入り、腕を伸ばすと花房には手が届くが、枝までは到底無理で四郎はどうしたものかと座り込んだ。

「裾が濡れるよ。坊」

冴え渡るような声の響きに驚いて立ち上がる四郎。
裾に手をやって確かめてみると、寝間着のままの着物の裾が濡れている。

朝露に光る草の上に座り込んだせいだろう。

裾を気にしながら声のした藤棚の柱の一つに眼を向けると、黒褐色の羽織を着た男が立っていた。

見かけぬ顔に警戒心を露わにすれば、男は人の良さそうな顔で笑う。

「そんなに睨んで、花泥棒にでもなった気分だ」

にやりと上がった口の端に四郎を責めている様子はない。
実際に花泥棒をしに来たのだから、咎められても何の不思議もないのだが。

「母さまに。病気で寝たきりだから・・・」

訊かれたわけではないが、何となく居心地が悪くて花泥棒の理由を吐露してしまう。

「たくさん雨が降ったから、花が落ちてしまっていないかと、心配だったの」

そろそろ藤の季節だねえ、と床の中で呟いた母の白い横顔が忘れられない。
胸が痛くなるのは、母がもう長くないのだと心の何処かで四郎にも分かっているからだ。

すん、と洟を啜った四郎の横にいつの間にか男が居た。
四郎の頭をぽんと叩いて、言う。

「よしよし。なら兄さんがとってやろ」

言うが早いか、男は藤棚の柱の一つに歩んで絡んだ枝振りを確かめると、足を掛ける。

四郎よりも大きい体をしているのに、軽々しく枝と柱を登って、藤棚の上に上がっていった。

「すごい。兄さん、身軽だねえ」

藤棚の細い渡しが折れやしないかと心配して、動く頭上の影に合わせて四郎も藤棚の下をうろうろと歩き回った。

「まあね。さて、ここいらの花でいいか?」

「うん」

藤の花の隙間から手が出てきて、器用に一房を手折る。
花差しに飾れるよう、枝を長めにしてくれたので四郎も大満足だった。

「落とすよ。しっかり取りな」

花に付いた露がぱたぱたと顔に落ちてきたが、必死に眼を開けて精一杯、腕を伸ばした。

懐に落ちてきた房を、花を潰してしまわないようしっかりと抱きしめる。



「綺麗な花だ。母様もきっと喜ぶな」

「うん。兄さん、ありがとう」

登りと同じように軽々と藤棚から降りてきた男は、四郎の耳元でそっと囁いた。

「母様の病気が良くなるように、まじないもかけておこう。眼を閉じてごらん」

不思議な響きの声に、言われるままに瞼をとじる四郎。

唇に柔らかく湿ったものが触れて、驚いて眼を開けた。

「い、今のが・・・あれ?」

四郎の前に男の姿はなく、代わりに黒い羽根をした杜鵑が一羽。
草の上に細い足をついて、じっとこちらを見上げている。

「に、兄さん?」

呼んで、黒い縞のある体に手を伸ばそうとすると、彼は羽根を広げて飛び立ってしまった。

空に映える赤い嘴もあっという間に見えなくなって、小さな影になる。
その影に向かって、四郎はぽつりと呟いた。



「またね。兄さん」



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