春は零れ落ちて

その家の中庭には、美しい梅の木があった。

風の冴える冬の朝。
花開き始めた紅の色は青い空に一層映える。

枝の先では、今にも咲き出しそうにふっくりと膨らんだ蕾が幾つも並んで、その時を待っていた。


大きく広がった枝ぶりを、幹に背を預けて晴夫(はるお)は見上げる。
今にも零れ落ちてきそうな花弁に眼を細めた。

学生服のポケットから小さな包みを取り出して梅の枝の隙間に置くと、何かを待つように眼を閉じて深呼吸をする晴夫。

大きな体に悲鳴を上げる様に幹が小さく軋んだ。
慌てて体を離した晴夫の前に小柄な青年が立っていた。

無邪気さの残る彼に、ぴったりと似合っている淡い鶯色の着物。

ひらりと裾を翻しながら勢い良く駆け寄ってきて、綻ぶ花のような笑顔を浮かべ、晴夫の首に腕を回してくる。

「はるお。会いたかった・・・」

ぎゅう、とありったけの力で抱きしめられると、切なくなった。

「その格好は?まるで昔に戻ったみたい。学ランなんて」

笑いながら細い指で晴夫の顔を包み、言う。

「いつもみたいに、して?」

何を請われているのか理解して、晴夫は唇を差し出した。

柔らかな唇から、仄かに春の香りがする。
蜜を求めるように夢中になって吸いつけば、今更やめることはできなかった。


そうしてはいけない、と。
固く言われていたのに。
晴夫は約束を破ってしまった。




「見て・・・ほら。一輪、咲いてる」

梅の枝下で乱れた着物を直しながら、青年がぽつりと言う。
開いたばかりの紅を羨ましそうに見つめ、晴夫の体に縋ってきた。

「今度は、いつ会いに来てくれる?」

辛い答えを、晴夫は口にするしかできない。

「・・・もう、会えない」

眼を見開く彼の頬を撫でながら、晴夫は真実を告げた。


「君の言う晴雄は、亡くなったんだ。俺は、おじいちゃんに言われてここに来た。同じ名前で、おじいちゃんの若い頃にそっくりだから、って。でも、俺は君の好きな晴雄とは・・・おじいちゃんとは違うんだ」

あんなに笑っていたのに、唇を真一文字に結んで黙っている青年は別人のように見える。
突然の晴夫の告白に言葉もないのだろう。

「だから、もうここ来ることはできない」

一息に言って、枝に置いた包みを渡す。
力なく受け取った手が包みを開くと、ころんと小さなボタンが出てきた。

「それは、おじいちゃんから。もう、ここへ来てはいけない」

ボタンを握り締めた拳を胸に抱いて、肩を震わせている。
白い頬に涙がつたっても、晴夫にはどうしてやることもできない。

「それなら・・・僕は、はるおと一緒に行くよ」

囁きと同時に、強い風が梅の枝を揺らした。
思わず眼を閉じてしまった晴夫が次に眼を開けた時、そこに青年の姿はなかった。


美しい音色で囀っていた鶯は、一瞬にして消えてしまった。


風のせいで、咲いたばかりの花が散っている。
晴夫の足元に残された、一輪の梅。

それを拾って、消えてしまったボタンの代わりに大事に紙に包んだ。


花を抱き、また巡る春を待つ。



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