雨よりほかに

その日は祭の日だったので、急いで家に帰っても誰もいないことを松一郎(しょういちろう)は分かっていた。

小雨が降る中、傘を差して足早に川縁へ急ぐ人々。
このくらいの雨ならば、花火を中止にしたりはしないのが江戸の男というものだ。
妻は、どの着物を着て行こうかと楽しそうに笑っていた。

中止にならずに良かったと思う反面、申し訳なさがちらりと胸の内に湧き上がる。
仕事で一緒に行けないと告げたら、選んだ椿の柄がくしゃくしゃに萎れる程握りしめて、瞳を潤ませていた。

間に合うように帰ろうと思っていたが、やはり得意先の番頭に引き止められて結局はこんな時刻になってしまった。
半ば諦めて、水の跳ねない程度に走って家へ急ぐ。

松一郎は傘を持っていなかったので、帰り着いた頃には鈍色がすっかり黒に見えるほど濡れてしまっていた。

「おかえりなさいませ。旦那様。まあ。こんなに濡れて・・・」

下女が一人出迎えてくれ、慌てて手拭いを持ってきた。
ほかは皆、祭に出掛けたのだろう、家の中はしんと静まり返って、聴こえるのは雨粒が風に流される幽かな音だけ。

手拭いで髪を拭く松一郎の横で、下女がそわそわとこちらを見つめている。
視線を気取って声を掛けた。

「わたしのことはいいから、お前も行っておいで。早くしないと花火に間に合わなくなってしまうよ」

でも、と躊躇う下女に傘を持たせて見送り、松一郎は着物をしまってある部屋へと移動する。
ペタペタと濡れた足音が聴こえるのが何故だか心地良くて、子供のようにわざと足を高く上げて歩いた。



灯りを入れて着替えを探し、畳の上へ広げる。
羽織を脱ごうとした松一郎の後ろから、突然白い手が伸びてきて濡れた羽織をする、と脱がされた。

驚いて振り返った松一郎の目に映ったのは、見覚えのない少年。

白い肌に薄手の着物を着て、濡れた羽織を抱きしめている。

小ぶりな赤い口元が不思議と妖艶で、思わず見惚れてしまった。

「お手伝いを」

着替えの、と言うことなのだろう羽織を衣桁に掛けると、帯を解こうと手を伸ばしてくる。

見覚えのない少年に手を借りながら着物を脱ぐ。
腑に落ちない物を感じて、松一郎は堪らずに口を開いた。

「見ない顔だが、新しい奉公人だったかな」

「いいえ。ずっと前から、ここに居りますよ」

少年が笑ったように見えたのは気のせいだろうか。

「覚えていらっしゃらないのも、詮無いことです。ここに来た時、わたしはずっと奥様の影に隠れて居りましたから」

畳に膝をついた姿勢で濡れた体を拭いてくれていたが、突然裸の腰に腕を回される。

驚きのあまり言葉を発することもできない松一郎を見上げて、少年は静かに言った。

「はじめて見たときから、松一郎様をお慕いしています」

切なげに潤んだ瞳の下で、赤い唇が研ぎ澄まされたように妖しく光る。

我を忘れて小さな体を畳に押し倒せば、松一郎の着物を抱えたせいで濡れた着物の前に透けて見える、愛らしい胸の飾り。

本能的にそこへ指を這わせて裸のまま少年の上に覆いかぶさり、白い着物の袷を乱した。

「こんな風に松一郎様に触れて貰える日を、夢に見ていました。ずっと・・・」

艶かしい吐息が松一郎の唇にかかる。

遠くに、祭りの花火の音が聴こえた。






「あなた。こんなところで何をなさっているの?」

柔らかい妻の声で目を覚ました。
畳の上で眠っていたせいか体のあちこちが軋む。

上にかかっていた着物をぞんざいに払いのけると妻の叱咤が飛んできた。

「私の留袖を引っ張り出して、一体何をなさっていたのですか?」

松一郎が布団代わりにしていた黒い留袖。
それは妻が嫁入りの時に持ってきたものだった。

まったく、とぼやきながら着物をたたみ始めた彼女がふと不思議そうに首を傾げる。

「あら?おかしいわね。鶴は二羽じゃなかったかしら・・・」

銀粉の水辺に佇む金糸の刺繍の鶴。
それが一羽になってしまった理由を、松一郎はなんとなく理解する。

流れない水の中に残された鶴が、物悲しく見えた。



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