呼吸する箱庭



「ただいま、なまえさん」


耳慣れた声にお帰り、と返しながら、ちょっと首をかしげた。


「小鞠くんの家じゃないでしょ」
「だって、もう僕の家みたいなものですよ、こんなに毎日のように帰ってるんですから」


よく言うわ、軽く鼻で笑いながら玄関まで迎えに行った。いつも通りのにこにこした表情で小鞠くんはコートをハンガーにかける。


「ご飯は?」
「食べてきました。なまえさんは?」
「私もさっき食べた」


空になった手で私の手を取って、軽いキスを交わす。微かに香ったタバコの香りに、どこで食べてきたのかな、と思いながら、それは口にはしなかった。





小鞠くんとの始まりは、自分でもびっくりするほど軽いものだった。
特に人と会う約束もなかった休日、一人で買い物をしに街を歩いていたとき、声をかけてきたのが小鞠くんだった。それだけ。平たく言えばナンパだ。
正直、突然現れて食事にさそう彼にどうしてついて行こうと思ったのかはいまだによくわからない。普段ならそんな怪しいものに軽々しくついていくことなんてしないのに、あの時だけはなぜか特別だった。強いて言うなら、なんとなく好みだったから、というところだろうか。


一回目の食事が終わると、小鞠くんは終電を気にしてさっさと私を電車に乗せた。ちょっと拍子抜けした私は、やっぱり合わなかったってことかな、と考えたものだった。まあ、ナンパなんてこんなものかと。私は悪くないと思ったんだけどな、と少しだけ残念に思いながらも、取るに足りない経験として忘れようとしていた。数週間後、小鞠くんからの着信が来るまでは。




なんで私だったの、と聞いた私に小鞠くんが、すごく好みだったので、と笑って答えたのは何回目かのデートの時だった。それから間もなく、小鞠くんは私のマンションに入り浸るようになった。そして、少し年下くらいかと思っていた小鞠くんが10近くも下だと知って驚いたのも、それと同じくらいの頃だった。






「なまえさん、なんだかお疲れみたいですね」


ソファに腰かけた小鞠くんは頬杖を突きながら目を細めた。


「そう?そうでもないと思うけどなあ」
「ボクが肩もんであげますよ」
「うわあ、なんかすごい年取った気分」
「違いますよ、考えすぎです。ほら、来てください、こっち」


小鞠くんが楽しそうに自分の膝を両手でぽんぽんと叩く。小鞠くんてマッサージすごくうまいんだよね。この際おばさん扱いでもいいや、甘えちゃおう。
這うようにして小鞠くんの足元に移った。すっと小鞠くんの温かい手が肩に添えられ、力が込められる。ああ、やっぱりすごい気持ちいい。


「ううん、やっぱり凝ってますよ。この辺なんか、がちがちです」
「なんでかなあ。やっぱパソコンのせい?」
「たまにはちゃんと動かさないと」


軽く相槌を打ちながら、やっぱ運動かあ、と考える。そういえば、小鞠くんは自転車やってるんだったな。今度ついてってみようか、と思ったけどすぐに考え直した。もう何年も自転車なんて乗ってない。

肩をほぐしていた手が、だんだんと滑るように鎖骨を通り、ゆっくりと服の中へと入ってきた。ちょっと、と制止する私の手を反対の手で握り、小鞠くんが私の首筋に顔を摺り寄せる。


「なまえさん、明日は仕事お休みなんですよね」


楽しそうにそう問う小鞠くんに、絆される私も私だなあ、と苦笑が漏れた。





夜遅くにやってきて、朝は自転車の練習だか仕事だかで早くに出ていく。結局会っているのは夜だけで、朝を一緒にゆっくり迎えたこともない。それでも、小鞠くんのとの時間は居心地がよくて、私はそのまま踏み出せずにいた。きっと、この関係には生産性なんてない。



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