15



「しもたなあ…」


部室棟倉庫、と書かれたタグのついた鍵をつまみ上げて、私は大きくため息を吐いた。

いつもは先生たちが帰ってしまう前に職員室の鍵置き場に返しに行くこの鍵を、今日は練習やその片づけでもたもたしているうちに返しそびれてしまった。運の悪いことに、今日に限って先生たちも早々にいなくなってしまうし。自転車部の部室の前に立ち尽くし、とにかく私は途方に暮れていた。

ひゅう、と抜けていく風に肩を震わせた。もう明かりの灯っていない校舎の窓はどこまでも続く空洞のようで、ぽっかりと暗く口を開けている。
昔から、夜の校舎って苦手だった。昼間は騒がしくて活気に満ちている教室や廊下も、夜はがらんとしていて、まるで違う世界みたいだ。世界中に自分一人しかいないような、もう二度とみんなのいる場所へは帰ってこられないような気がして、一人で行くのはどうにも気が引ける。誰かついてきてくれそうな人はいないものかと部室まで顔を出したけど、こういうとき頼りになる石垣先輩もいなければ、頼めば来てくれる山口くんもとっくに帰ってしまっている。こんな時間まで残っているのは例によって一人だけ。そう、御堂筋くんだ。


「(来て…くれるわけ、ないやろなあ)」


ドアを開けた格好のまま、私は奥で帰り支度をする御堂筋くんを見つめて考えた。ちらりと目が合ったけど、御堂筋くんはさっと視線を下ろした。関わり合いになりたくないという御堂筋くんなりのポーズだろう。倉庫の鍵を返し忘れたから、返すのに一緒に着いてきてほしい。正直にそう言ったところで御堂筋くんが着いてきてくれる可能性はあるだろうか。…限りなく、無理に近いと思う。どうあがいても、御堂筋くんが首を縦に振るイメージは見えない。

しばらくの沈黙の後、さすがの御堂筋くんも視線に耐えかねたのか、なんやの、と嫌そうに呟いた。
こうなったらやけだ。私はわらにもすがる思いで泣きついた。


「助けて御堂筋くん!倉庫の鍵返しに行かなあかんのに、もう校舎の電気消えてもうたんよ!」
「…それがなんなん」
「もう校舎真っ暗やんね?」
「で?」
「で?やないよ怖いの!心細いの!ね、一緒にきてくれたら嬉しいんやけどなぁ」
「イヤに決まっとるやろ。暗いとこ怖いて、ププ…子供かキミィ」


御堂筋くんは馬鹿にしたように鼻で笑い、吐き捨てた。だって、怖いものは怖いんだもん。


「おばけに祟られたら御堂筋くんのせいやて遺書に書くから!」
「そらすごいなあ、ほな」
「ま、待ってや」


付き合ってられない、とでも言うようにカバンを掴んでさっさと出ていこうとする御堂筋くんの手首を咄嗟にぎゅっと掴む。ピギッと変な声を上げて御堂筋くんは勢いよく振り向いた。よし、これは割と本気でびっくりしてるな。どうにか足止めは成功だ。


「気ィ安く触らんでくれるぅ」
「鍵、ちゃんと返さへんかったらうちの部の責任問題なるなあ?」
「……」
「活動、自粛せなあかんようなるかもしれんなあ」
「ボクを脅しよるつもりなん」
「ねえ、ちょっとでええんよ。さーっと行って、ぱーっと鍵返してくるだけやから…」



御堂筋くんは私を睨みつけていた視線を右下へ遣り、おおっぴらに舌打ちをした。
そのまま私の腕をぐるっと振りほどくと歩き出してしまう。ああ、振り切られてしまった。仕方ない、覚悟を決めて一人で行くしかないか。やだなあ、こわいなあ。ちょっと涙が出そうだ。気を紛らわすように小さく鼻をすすった。

そのまま数歩進んだかと思うと、御堂筋くんはくるっと振り返った。


「何しとん、早よ来んとほんまにボク帰るで」
「え?」


ぞんざいに投げられた言葉の意味がわからず、間抜けな声を上げた。私の察しの悪さにしびれをきらしたように、御堂筋くんはため息を吐く。


「職員室やろ、もうめんどいから行ったるわ」
「あ、ありがとう!!」
「やかましなあ、ほぉんま」


なんやええとこあるやん、と茶化したくなる気持ちは何とか抑えた。そんなことを言ったら、まず間違いなく御堂筋くんは帰る。せっかくOKしてくれたのに、こんなチャンスを逃すわけにはいかないのだ。面白くなさそうに髪をぐしゃぐしゃと崩す御堂筋くんの背中を、足早に追いかけた。










職員室、と書かれたプレートを見上げる。いつもと同じものを見ているはずなのに、明るさが違うだけでこうも雰囲気が違うとは。どうしよう、例えば、この部屋に入った途端扉が閉じて、そのまま開かなくなってしまったら。
自分でもくだらない想像だとは思うけど、頭にこびりついたそれは消えてくれない。躊躇いながら隣の御堂筋くんを見ると、丸くて大きな目がこちらにじろりと向けられる。御堂筋くんの顔は夜中に見ると怖さ倍増だ。


「ほら、早よ行ってきてや」
「う、うん」


急き立てる御堂筋くんの声に背中を押されるように、がらがら、と入り口の引き戸を開けた。当然のことながら職員室はしんと静まり返っている。うん、怖い。怖いけど、後ろに(たとえあの、顔の怖い御堂筋くんでも)誰かがいてくれるのだと思えば幾分ましに思えた。


「絶対そこにおってよ!勝手に帰ったらほんまに怒るから!」
「…ええから早よ終わらし」


うんざりしたような声が聞こえるのを何度も確認しながら、部屋の真ん中あたりに置かれた棚に鍵をかける。ミッションコンプリートや、と振り返りガッツポーズを作ってみせると、御堂筋くんは長い舌をだらりと垂らし「アホやっとらんと帰るで」と返した。言われなくても、こんなところ、こっちからおさらばだ。


職員室の入り口まであと数歩、ようやく終わりが近づいた解放感に私が意気揚々と駆け出した瞬間、急に体が前につんのめった。何かにつまずいた、と頭で理解するよりも先に、どこかにつかまろうと伸ばした手が空を切る。あ、無理だこれ。完全に転ぶ。



早々に諦めて目を瞑った私の予想よりも早く、がくっと私の体は倒れるのを止めた。横から伸ばされた御堂筋くんの腕が私の体を支えて、寸でのところで踏みとどまっている。見上げた先では、心底呆れたように眉尻を下げた御堂筋くんと目が合った。



「ほんまにキミはよう転ぶね、鈍くさいなぁ」
「ご、めん、なさい…」


ぐ、っと私を押し戻すようにまっすぐ立たせて御堂筋くんは踵を返した。

私はと言えば、ずっと折れそうだとばかり思っていたその腕の硬さとか、掴まれた肩の感触とか、そんなことばかりがやけに気にかかって、そこに縫い付けられたように立ち尽くしてしまった。御堂筋くんもそんな、普通の男の子みたいなことできるんだ。細そうに見えるだけで、やっぱりスポーツやってるし、ちゃんと力とかあるのかな。


足を止め、何をしてるんだと言わんばかりの顔でこちらを見る御堂筋くんに、ようやく私も踏み出した。



「ごめん、ありがと…」
「べぇつぅに」


こんなとこで転ぶ間抜けのせいで問題なるんなんてまっぴらやわ。御堂筋くんはそう呟くとまた、私の斜め前を歩き出した。それを追うように歩きながら私は、どうにも行き場のない視線を窓の外へ向ける。真っ暗な窓の先に、きらきらと星が光るのが見えた。秋も終わり始めている。少し空気は冷たいけれど、そんなのが全部遠くへ行ってしまうような、妙にふわふわした感覚に覆われていた。








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