「それじゃ私、帰るわね」
重苦しくぎこちない沈黙を、みちるはその一言で終わらせた。余りに臆病な、不自然な、声音だったけれども。
はるかがゆるゆると首肯するのを見て、席を立つ。
――言いたいことは山ほどあった。
謝りたかった、赦しを乞いたかった。それから抱き締めて、胸の鼓動を永遠に聴いていたかった。
だけれども、今の自分にそんな資格など無いと、みちるは思う。
タリスマンの出現。
あんなにも血と泥にまみれて、まみれては人を殺め、自身の心を殺めるのだと何年ものあいだ、ただ毎日、毎日毎日毎日狂おしいほどに誓ってきた、その日が来てしまったのに自身は、何よりもはるかは。何者をも殺めはしなかった。ひたすらに捜し続けた結晶は、この心たちに封印されていたのだから。
信じ難い現実は未だぼんやりとして、実態を掴みあぐねている、今。
悲劇は免れたと、そう、単純に祝福すればいいのかもしれない。それでも、この全身に降り積もった葛藤、悲哀、覚悟と、採算があわずにぐずぐずと戸惑っている。
照明も点けずに外灯だけが映し出す、心細いばかりの、はるかの部屋。
あの窓辺で酷く痛々しかったはるかに、とどまることをまるで知らない愛情でもって言葉を与えたのは、今朝ではなかったか。
――何故、何故。
たった今朝には、出来たこと。
今のみちると、はるかは、この部屋にいながらにして、ぽつり、頼りなげな迷い子だった。
まだ立ち止まってはいけない。すべて終わったわけでは無い。――まだ、また、明日から、新たな使命に向かって歩き出す。
だというのに、現実よりも悲惨だったのはこの現状で、それをうまく操るすべなど知る由も無かった。
そうして何より、自身ははるかを裏切ったことに他ならないと、みちるは歯を食い縛る。
何故、何故、何故。
私の未来は続いているの。
何のために。
裏切りが、比重するまでもなく死よりも重いことに、ようやっとで気付いたってもう遅かった。
貴女を死なせたくなかった一心で―― だなんて、口が裂けたって言えやしない。裏切りの事実は消えず、べっとりとみちるを苛むだけ。じっとりとはるかを蝕むだけ。
この、愛情こそが、はるかの心を最も抉った元凶。
それでも決して棄てられぬ愛に、みちるはこのときになってはじめて、軽蔑を寄越した。
**
足取りが重い。一歩一歩、鉛のように。
今にも消えそうな最愛を残して去ることだけが、裏切り者に与えられた選択肢だった。
こんな心は、醜い愛は潰れてしまえばいい。
ただ彼女の正義を、その正しさを肯定し続けて、何処までも共に在らねばならなかったのに。
まだずっとふたり、闘い続けねばならぬのに。
はるかをこの道に引き摺り込んだのは結局はみちるで、そのみちるの裏切りに、やわい彼女の心が一体どうなってしまうのか。それは叫び出したいほどの恐怖だった。
廊下には、外灯すらも届かない。暗闇に馴染んだローファを手繰り寄せたとき、みちるはようやっと、今が制服姿であったことを思い出す。
敵を探るためだけに選んだこの進学先だって、はるかと共に在ることが、日々どんなにか幸福をもたらしたろう――滲みそうになる涙をぐっと堪えて、ローファに足を通した。
ドアノブに手を掛けたとき、後ろから窒息しそうに強く抱き締められた、その気配を一切感知出来ずにいたのは、みちるこそが深い感傷に浸っていたからに他ならなかった。
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