こんな物は、ダメだ。 澪一郎は先程まで筆を走らせていた原稿用紙を鷲掴みにすると、丸めて背後へ放り投げた。よく目にする、典型的な作家の図である。作家という副業を始めた当初は、その職業への一般的なイメージに嵌りたくて態とやっていたものだ。然し今では失敗した原稿を丸めて放り投げるという行為は、彼の自然な動作の一つとなっていた。 澪一郎は黒々とした短髪を掻き回すと、短く悲鳴を挙げて机に突っ伏した。視界の端に、丸めた紙屑の山が堆積している。その向こうにはインクの空き瓶で形成された地層だ。泣けてくる。 彼はかれこれ一週間、この膠着状態を続けている。つまりは、原稿が進まないのである。彼は学生作家としてそこそこ有名であるが、ある描写に至ると大抵ひと月はこの様な状況に陥る。最近では担当編集者も出来るだけその描写を抜かす様な方針を打ち立ててくるが、やはりどうしても逃れられない事というものはある。澪一郎はそれを、経験不足であると自己分析していた。 「兄さん、大丈夫」 自室の扉が細く開いて、妹が顔を覗かせた。先程挙げた悲鳴が聞こえたのだろうか、不安そうな表情をしている。彼女を安心させる為、澪一郎は疲れた様に笑って、頷いた。途端に澪子は室内に進入してくる。手には湯気を立たせた茶碗を乗せた盆を持っている。我が妹ながら気が利く、と感じた。澪一郎は期待した瞳で、脚を崩した。 「部屋に篭ってから長いから、そろそろ息抜きが必要かと思ったの」 あどけない顔に微笑みを浮かべて妹が言った。澪一郎は苦笑しつつ頷くと、熱を持った湯呑を手にとった。澪子の方も床に正座をすると、濃茶を啜る。茶道を嗜む彼女が自分で点てたのであろう。渋みを伴う苦い茶は、痺れた頭を覚醒させていく様だった。 澪一郎は、酷くこの澪子を溺愛していた。こうして気が利くし、何より自分に懐いてくれている。現代の十代には似つかわない程に古風な物好きという趣味趣向に関しても、気が合っていた。もう一人の妹である澪香は少し冷めたところがあり、兄の傍に寄ってくるという事がない。その寂しさもあってか、反動で澪子への愛情の注ぎ具合はひとしおであった。 「兄さん、とても疲れているみたい。休んではどう」 澪一郎の表情の中に何かを感じ取ったのか、不安そうに眉を寄せながら澪子が言った。可愛らしい作りの幼い顔に瞳を覗き込まれる。澪一郎は苦笑いして半歩後ろへ躙った。暫く寝不足だからだろう、そう答えると、澪子は首を振った。 「そうではないわ。何かもっと深刻な悩み」 澪一郎にとっては、睡眠不足もかなり深刻な悩みなのだが。答え倦ねていると、ふと原稿用紙の山が目に入った。あぁ、これかも知れない。 「どうしても、書けない描写があるんだ。澪子、実演で助けてくれるか」 妹が助けてくれれば、何とかなる気がした。逆にそうしてくれなければ、どうにもならない。澪一郎の瞳は何時しか冷静な思考など忘れた者の瞳になっていた。今度は澪子の方が後ろへ下がる番だ。 寝不足でぼんやりした彼の瞳には、真っ直ぐに妹が映っていた。自分を慕ってくれる、可愛い妹。自分を助けてくれるであろう、可愛い妹。そうだ、助けてくれ。どうか、助けて欲しい。そうでなければ、あともう一月ここで缶詰だ。慢性的な悩み。作家としての悩み。 どうしても、人間同士の愛慕の描写が書けないのだ。 お題:即興小説トレーニング 様より『プロの狂気』 表紙 その他の小説も読んでくださる方は、是非本家HPにもお立ち寄りください→+Ange+ 小説ランキング参加中です。応援よろしくお願いします→Alphapolis |