それは、全くの偶然だった。
☆
手塚に使用される文具類は、忙しない。
出された課題と翌日の予習、部活の日程案の下書き、生徒会資料の書き留めなどなど。
上げていてはキリがないほどに、手塚は机に向かう時間が多い。
その上、学校の授業はキッチリとノートを取り、加えて自分なりに解説などを付属して書いたりするものだから、手塚の使用するシャープペンはいつも悲鳴ものだ。
そうであれば、手塚のシャープペンは頻繁に芯が切れる。
一度に二、三本入れても三日、酷い時は二日でペンの中が空になる。
しかも、何気に手塚は筆圧が強い。
気を抜けば芯がポキリといく。
そんな現状であるからして、手塚は一週間に一度、シャープペンの芯をコンビニへと買いに行くことが習慣化している。
一度にまとめ買いしてもいいのだが、そうすると筆箱がガチャガチャとして不快。
かと言って入れずにおくと空のものと間違えて捨ててしまう。
だから一週間に一度、一つずつ買っているのだ。
今日もまた、シャープペンの芯を買いにコンビニへと向かった、その帰りだった。
ふとポケットに入れていた携帯が振動し、手塚を呼んだ。
通行人の邪魔にならないよう、道の脇に寄って携帯を開けば、母からのメールだった。
『お味噌が切れてしまったの。まだコンビニにいるなら買ってきてもらえないかしら?』
パタリと携帯を閉じ、息を吐く。
いつもならばあの母のこと。
味噌のメーカーにも拘るのだが、コンビニでコトを済ませようとしているということは、恐らく調理してから味噌がないことに気付いたのだろう。
後は味噌を入れるだけという状態で冷蔵庫を開け、慌てる母が容易に想像出来た。
──仕方ない
進行方向を反転し、再びコンビニの中へと入っていった。
☆
いつもであれば大通りを通って自宅へと戻る。
だが、今日は母からの頼まれものがある。
しかもそれが本日の夕飯に不可欠であろう代物。
察するに、自宅のキッチンでは母が手塚の帰りを今か今かと待っているだろう。
それならば、出来るだけ早く帰宅するに越したことはない。
ならばと、手塚の足は裏道へと向かった。
大通りに面した公園を真っ直ぐ突っ切り、向かいの道路から脇道に入れば、自宅はすぐだ。
住宅地を迂回するように作られた大通りを真っ直ぐに突っ切る最短距離は、地元人愛用のものである。
とはいえ、日が暮れてからはガラの悪い者たちが屯する場所でもあるため、夜の使用者は少ない。
揉め事を好まない手塚としてはいつもならば通らない道だ。
そう、偶然だった。
偶然が重なり、手塚はその道へと足を踏み入れただけだった。
☆
「────な…────か────せ────」
「……ん?」
裏道を数歩行ったところで。
微かに耳に届いたものは、人の声。
空耳とも取れるように、それは遠いものだった。
「────せよ───て────ろよ!」
「……揉め事か。」
耳を澄ませば、その声が怒鳴り声であることが判った。
治安が悪いと評判の裏道だ。
諍いなど日常茶飯事であろう。
深い溜め息が口を吐き、握るビニール袋を軽く握り直した。
「は────だろ!───めろ!」
「……女……か?」
自宅へと急ごうと足を踏み出した直後。
再び聞こえた声に、足を止めた。
届いた声は高く、しかしどこか掠れたハスキーなもの。
男にしては高過ぎる。
しかし、女であればハスキーボイスと呼ばれるトーンだった。
ゆっくりと、溜め息が零れる。
──全く……
そして、手塚の足が声へと向かった。
──厄介事など好まんというのに
ただの諍いであれば、迷わず素通りしていた。
何事かを起こし、学校に報告されてはコトだ。
だが、女が関わっているのであればそうも言ってられない。
別段手塚はフェミニストではない。
寧ろ冷たいほうだ。
だが、こんな場所で起こる諍いに女が関わっていると知りながら素通りすることは、手塚には到底無理だった。
ゆっくりと近付く声を辿りながら進み、心中で舌打ちを零す。
──面倒ごとは真っ平なんだがな……
こういうときに無駄に強い責任感は邪魔に思えるというものだ。
胸中で低く毒づき、漸く声が判別出来る場所まで到達する。
そして。
「離せっつってんだろ!誰がアンタらなんかの相手するか!!」
「っ!」
声を判別した瞬間。
手塚は走り出していた。
袋を投げ捨て、一心不乱に。
あの声は、聞き覚えのあるものだった。
いや、聞き覚えがあるなどというレベルじゃない。
あれは……あの声は……。
──なぜこんなところにお前がいるんだ!リョーマ!
聞き取った声は、自分本位で生意気な後輩。
そして自分の恋人である、越前リョーマのものだった。
☆
「やめろっつってんだろ!!いい加減にしろよ!!」
憤激する怒声が響くのは、住宅地を少し離れた空き地。
公園とも呼べない草だけの生えた閑静な場所。
「どけってば!気持ち悪いんだよ!!」
怒声を撒き散らすボーイッシュな少女の上には、ニヤけ顔の青年。
その周囲には青年と類を同じくした軽そうな青年が四、五人。
誰が見ても一目で判るそれは──強姦現場だった。
「いいじゃんよ。気持ちよくしてやんぜぇ?」
ケラケラと笑う下卑た男に、少女の顔が嫌悪に歪む。
バタ付かせていた足を一度地に下ろし、一気に踏み込んだ。
ドカッ!!
「ぐはっ!」
奇妙な音とともに、少女──リョーマにのし掛かっていた男が腹を押さえて草に倒れ伏す。
リョーマの足が、男を脇へと押し退けた。
「アンタらみたいな外道相手に誰が腰振るか!」
男を蹴り飛ばした足で反動を付け、上半身を起こして、言い放つ。
その顔には、紛れもない怒り。
「こんのクソガキ!!」
「優しくしてやってりゃ頭に乗りやがって!!」
仲間を蹴り飛ばされ、男たちが逆上を顕にする。
そして、一斉にリョーマへと襲いかかった。
……はずだった。
「がはっ!」
「ぐっ!」
リョーマへと男たちの手が及ぶ寸前。
二つの奇声が夜空に霧散した。
「なっ!ヤス!トシ!」
男の一人が背後を仰ぎ、唐突に倒れた二人の名前と思しきソレを呼んだ。
釣られるように一斉に視線が向かったソコ。
そこには、気絶してダラリと四肢を投げ出した二人の男と……悠然と佇む一人の男の姿があった。
「なんだテメェ!!」
激昂する男の一人が、青年へと殴りかかる。
が、その拳は見事に流され、青年の脇をすり抜けて空を切った。
そして、青年の腕が男の首を鷲掴み、大地へと叩き付ける。
ダァンッ!!
鈍い衝突音が、その衝撃の強さを知らしめた。
「……何をした。」
ポツリと、青年の口から零れた言葉。
低く、押し殺したソレに宿るのは、憤怒。
ユラリと身を起こした青年の姿が、微かな街灯に照らされる。
「貴様ら下衆が……リョーマに何をした……。」
冷たく、硬質な美貌が男たちを貫く。
レンズの奥の瞳が、鋭利な刃を思わせた。
「ぶ……ちょう……?」
唐突な救済者到来に呆然としていたリョーマが、照らされた青年の容貌に驚愕を顕にした。
ここにいるとは到底思えない恋人──手塚の姿に。
しかし、リョーマの呟きなど聞こえぬかの如く。
手塚が踏み出した。
男たちへと。
「己の分も弁えられん下郎が……。」
その腕が、新たな男を掴み、再び大地へと叩き付ける。
一本背負いに関節技を加えたソレは、一撃必殺と呼ぶに相応しい威力だった。
「貴様ら……死ぬか……?」
「ひっ……!」
柳眉すらも微動だにしない静かな憤激。
喉を引きつらせた男の声が、無様に掠れた。
腰を抜かし、へたりこむ男を静かに一瞥し、手塚の足がソレの腹を蹴り飛ばす。
「失せろ、下衆が。目障りだ。」
男を空き地の入口へと再び蹴り飛ばし、見下ろす。
冷たい、一瞥。
「ひ……ひぃぃぃ!!」
間の抜けた声を上げて這いつくばる男が、空き地の入口へと向かう。
そして、数個の気絶した男たちと、リョーマと手塚だけが空き地に残った。
流れたのは、僅かな静寂。
「……なんで……いんの……?」
沈黙を破ったのは、破かれかけて乱れた服を直す、リョーマ。
困惑、というよりは訝しげなその瞳が、手塚を見上げる。
先までの無表情でもヒシヒシと伝わる怒りはないものの、眉間の皺は、濃い。
「……それは俺が聞きたいことだ。なぜこんな時間にこんな場所にいた。」
目には目を、歯には歯を、問いには問いを。
切替えされた言葉へと、リョーマが眉を寄せた。
「こんなとこ来たくて来たんじゃないし。アイツらに連れ込まれたんだよ。」
苦い表情とともに、僅かに破れたTシャツの襟を握る。
ゆっくりと立上がり、背中や尻に付いた砂を払い落としながら手塚を見上げた。
「それより、さっきはドーモ。一人二人ならオレ一人でもノせたけど、さすがに五人相手はキツかったしね。助かったよ。」
見上げて来るリョーマに、再び溜め息が込み上げた。
そして、僅かな頭痛。
──明らかに論点が違うだろうが……
ノせるノせないの問題ではないだろうと、手塚の左手が痛む頭を押さえた。
「っつうかコイツら本気でムカツクんだけど。」
手塚を見上げながら不機嫌を顕にするリョーマが、足下の男を蹴り飛ばした。
その際に僅かに呻き声が聞こえたが、素知らぬ顔。
「『気持ちいいことしよ〜?』とか言ってさ。冗談じゃないよ。毎日部長にヤられてんだからこれ以上ヤってらんないっつの。」
「……おい。」
──怒るべきはソコか?
と、いうよりも。
──コイツに恥じらいはないのか?
頭痛が増した頭を抱え、眉間を押さえる。
もはやリョーマのあけすけさはアメリカ帰り云々ではない。
女の自覚がないなどという生易しいものでもない。
もはや変人の域だ。
「はぁ。ま、いいや。助かったし。部長、送ってよ。」
犯されかけたというのに、リョーマの表情は飄々としている。
さっさと歩き出したリョーマの背を見やり、再び溜め息。
──俺が怒りを覚えたのがバカらしく思えてくる
などと胸中で毒づき、リョーマに続いて足を踏み出した。
その矢先。
クルリとリョーマが振り向き、笑った。
「そういえば、さっきのアンタちょっと本性出てたっしょ。下衆とか下郎って連呼してたし。貴様とも言ってたしね。」
楽しげに笑い、覗き込んでくる猫科の瞳。
揶揄を含むそれが、手塚の胸を軽く押した。
「……結構やるじゃん。ちょっとカッコいいと思ったよ。」
「……。」
再び背中を向けてしまった恋人に、小さく失笑する。
──……コイツには敵わんな
リョーマの隣りに並び、腰を抱いてやれば手の甲を抓られる。
可愛げがなくて自己中心的な彼女だが、こうしてどうしようもなく気を引いてくれるから困ったものだ。
胸中で零した苦笑を口端に乗せ、空き地を出た。
先ほど投げ捨てたビニール袋を拾い、帰路につく。
一人分夕食が増えると、母に連絡を入れて。
-END-
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