この世には化学で説明の付かぬ事象が数多溢れている。
それこそ日常の中にすらそれは潜み、安穏と過ごす人々に牙を剥かんと唇を湿らせているのだ。
夜は彼等の時間。
魔性の者がその本来の姿を露顕する、甘美な牢獄。






◆◇◆◇







「ん……」


微かな唸りとともに、モゾリと影が蠢く。
静謐な夜の帳に埋もれた闇の中、波打つ白磁の布がサラリと揺れた。
ゆるりと緩慢な仕種で横たえていた身体を起こしたのは、あどけない幼さを宿す少女。
しかし、持ち上げられた容貌はあどけなさとは縁遠い、妖艶とすら言える美貌。
小さな輪郭の中に収まるのは精巧に形作られたパーツたち。
まろい曲線を描く白く柔らかな頬。
艶やかにして淫靡な薄紅の唇。
ツンと尖った小振りな鼻筋。
そして琥珀を溶かし込んだかのような大きく鮮やかなアーモンドアイ。
縁取る睫毛はたわわに実り、長く柔らかなそれらは瞬きの度に目尻へと魅惑的な影を落としていく。
シーツの波から身体を起こした少女──リョーマは気怠げな仕種でもって隣に眠る男を一瞥する。
夜を徘徊していた折に知り合った男。
一夜の享楽を求めた男に了承し、つい先刻までこの場にて激しい情交を繰り返した相手だ。
しかし、リョーマの瞳に感慨は微塵も非ず、冷ややかとすら言える視線を据えるのみ。
汗によれてしまった前髪をかき上げ、深い吐息を吐き出した。


「…………」


不意に、リョーマの顔が持ち上がる。
視線の先には大きく拵えられた窓。
淡いベージュのカーテンの引かれたそこに、微かな影が揺れたのをリョーマの瞳は見逃さない。
緩慢な動きのまま眠る男の上にかかるシーツの一枚を剥ぎ取り、幼い裸身に巻き付ける。
あたかもシルクのドレスを纏うかのように布地を翻し、リョーマの足が窓へと向かった。
指先をカーテンへとかけ一気に押し開けば、異質な程に巨大な月が視界を覆う。
カラリと控えめな音をたてて開かれた窓から差し込む、ヒンヤリとした夜気。
季節は春であるにも関わらず春特有の柔らかな温かさはなく、冬の夜風に似た冷たさが肌を掠め、心地よさにリョーマの瞳が細められた。


「……相変わらずの堪え性のなさだな」


唐突に耳朶に吹き込まれる低音。
人影のないベランダに突如降り注いだ声音は、いっそ美声と呼ぶに遜色のない響き。
しかし、ここは地上六階のベランダ。
人の気配などあろう筈もない。
しかし、奇異なる場面に直面するリョーマ本人は至極楽しげに喉を震わせるのみ。
細めた瞳は愉悦に揺れるだけ。


「しょうがないじゃん。お腹空いたんだし」


異様な冷たさを孕む夜風に肌を曝し、リョーマの瞳が佇む月に背を向けた。


「ほら、腹が減っては戦は出来ぬって言うじゃん」

「誰と戦をする気だ。人類の皆殺しでもする気か?」

「まさか。自分から餌を根絶やしにするほど莫迦じゃないよ、俺」


緩やかに巡った視界の先には、一羽のカラス。
漆黒の翼を仄白い月光に鈍く照らされたソレは、しかし常あるものとは明らかに異なる。
漆黒である筈の瞳は黒ずんだ深紅を湛え、まるで血球の如き禍々しさ。
足も二本ではなく有り得ない三本目のそれを有し、漆黒の嘴から発されるのは耳障りな鳴き声ではなく蕩けんばかりの美声。
異様な様相を保つカラスはしかし、不気味さを醸し出しながら異質な美を放つ。
神々しいのではない。
禍々しさからなる背徳の美を、カラスは携えている。
そしてそれと向き合うリョーマもまた似て非なる美貌を笑みに綻ばせた。


「ねぇ。久し振りなんだし、戻ったら?」


カラスの嘴を緩やかに人差し指でなぞり、淫靡な笑みを一閃。
胡乱に瞳を細めるカラスへと愛らしく小首を傾げて見せれば、何処からともなく溜息が鼓膜を揺らした。


「全くお前は……」


カラスの嘴から零れた声はしかし皆まで紡がれることなく。
グニャリと歪んだ空気に放られる。
カラスの留まっていた欄干が不自然に歪み、空間そのものが一瞬、ポッカリと消失した。
しかし瞬きの間、消失した空間は常のままそこに鎮座し、代わりに男が佇む。
目の醒めるような美貌を有した、硬質な美丈夫。
洗練されたシャープな面差し。
引き結ばれた薄い唇は酷薄。
スッと通った鼻梁。
切れ長の鋭利な瞳はノンフレームの眼鏡に覆われる。
世の女のほぼ全てが感嘆するに申し分ない美貌の男が、そこにいた。
唐突に顕れた男に、しかしリョーマは驚く素振りなど微塵もなく。
至極嬉しそうに瞳を綻ばせる。


「久し振り。国光」


愛らしい仕種で微笑み、しかし幼さを裏切る手管で男──手塚の胸元を滑る指先。
甘えるようにしなだれかかるリョーマの腕が、逞しい腰へと回されたのもまた同時。
消え失せたカラスと入れ代わるように顕れた手塚。
そしてそれに身を寄せるリョーマ。
二人の醸し出す雰囲気は淫靡であり、何処か背徳的。
身を擦り寄せるリョーマの顎を手塚が捉え、指先で仰のかせれば抵抗なく絡み合う視線。
どちらからともなく寄せられた唇が重なったのは、その直後。


「ん……んぅ……ふ……」


唇の隙間を縫って零れる甘ったるい声。
絡まる舌がジンとした痺れを四肢全てに浸透するよう。
陶然と瞳を蕩けさせるリョーマに瞳を細め、手塚の指先が細い首筋をなぞった。
ピクリと震える肩。
逃げを打つように引かれた腰が手塚の手によって強引に引き寄せられ、唇が解かれる。
うっすらと開かれた距離。
間近に見詰め合う視線はしかし、再び傾けられた手塚の唇によって逸らされた。
だが、手塚の唇が向かうのはリョーマの唇ではなく。
ほっそりとした、白い首筋。
愛撫するかのように舌を這わせれば、フルリと華奢な身体が悶える。
そして、うっすらと開かれた手塚の唇が首筋を覆った。
ただし、鋭く尖った犬歯を露出し、白い皮膚を裂きながら。
ビクッと跳ねる華奢な肢体。


「あっ……あぁっ!」


一瞬見開かれた瞳は瞬時に陶然と染まり、歓喜の声がふっくらと色付く唇から溢れた。
首筋に噛み付く鋭利な牙から生成される強制的快楽。
そして、流れる血脈を貪られる異端の悦楽。
押し寄せる甘美な感覚に酔いしれ、リョーマはただ身悶えた。


「やっ……はっ、あンん……!」


もっと吸ってくれとばかりに手塚の頭を抱き締め、琥珀の瞳を涙に揺らす。
湿り気を帯び始めた下肢を擦り合わせ、強請るように腰を揺らした。
と、同時に離れていく愉悦。
首筋に埋め込まれていた牙が抜き去られ、急激に波を引いた快感にリョーマが不満げに手塚の秀逸な美貌を睨み上げた。


「何で……」


不満も露わに抗議を口にすれば、淫靡なまでの嘲笑が降り注ぐ。
リョーマの黒髪を指先に掬い、耳にかける仕種は優しいものであれ、瞳に浮かぶのは辛辣なまでの侮蔑。


「あれだけ男を喰らっておきながらまだ足りないのか、淫乱」


唾棄するかの如く吐き出された言葉に、リョーマの瞳が険呑な光を宿して手塚を睨む。
しかし、侮蔑の言葉を受けた身体が見出だしたのは恥辱に対する怒りではなく、蔑みの言葉による悦楽の震え。
快楽に貪欲な肉体に不愉快げに眉を顰めるリョーマを嘲笑し、手塚が踵を返した。


「もう行くの?」

「あぁ。明日は早いのでな」


名残惜しげなリョーマの声を背に、フワリと手塚の肢体が浮かび上がる。
物足りないと唇を尖らせるリョーマに目を細めれば、細い指先が手塚の指先に絡んだ。


「そう言えばアンタ、暇潰しに学校に通うって言ってたよね。確か……あおはる学園?だっけ?」

「青春学園だ」


絡めた指先を遊ぶように指を這わせるリョーマに訂正を入れつつ、だから何だと訝しげに眉を寄せる。


「ふーん……。ヴァンピールが学校……しかも中学生ねぇ」


クスクスと喉を鳴らすリョーマが、手塚の瞳を見上げる。
手塚は人でない。
吸血鬼、ヴァンパイア、ヴァンピールなどと呼ばれる、人の生き血を啜る魔種。


「俺も行こっかなぁ。学校」


餌も沢山いそうだし?と艶然とした笑みを浮かべるリョーマもまた、人に非ざるもの。
稀なる美貌を以て男を誘惑し、精を啜る者。
淫魔やサッキュバスと呼ばれる魔性だ。


「それに国光、テニスやってるんでしょ?なら俺も入ってあげるよ。テニス部」

「お前は女だろう。俺がいるのは男子テニス部だ」

「だったら男にdisguise(化ける)すればいいんでしょ?」


屈託なく微笑むリョーマに、手塚は辟易とばかりに溜息。
そして答えた言葉は、好きにしろと至極投げやりな言葉だった。


「ん。じゃあ善は急げってことで今年から入る。そしたらアンタも俺の美味しい血、吸い放題だし俺もアンタの精気吸い放題じゃん」


最近の人間の精気はあまり美味くないのだと唇を尖らせつつ、リョーマが破顔する。
手塚とともに過ごす充足した日々を思い、楽しげに瞳を綻ばせた。
そして、緩やかに重ねた唇。
重ねるだけのそれは数秒とせずに離れ、伏せた瞳を持ち上げた時には、手塚の姿は既になく。
相変わらず釣れない男だと軽く唇を尖らせた。
しかし、思わぬ収穫。
手塚と同じ時を過ごせる事に再び瞳を細めれば、巻き付けたシーツを翻し室内へと身体を滑り込ませる。
首筋に刻まれた二つの痕を、愛しげになぞりながら。













夜は狩場。
異端の者たちが蠢く時間。
人の皮を被り、類い稀な美貌を餌に人々を食い荒らす。
硬質な美を携える吸血鬼と、幼さを残す美貌に淫靡な雰囲気を纏う淫魔。
二つの異端が交わす情は人には理解し得ぬ。
だが人ならざる一対は瞬きの時をともにあることを約束した。
餌たる人間の集合体たる、学び舎の中に。



物語はここから紡がれる。



END


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