時遡ること数十年前。
それは、一つの宿命(さだめ)が告げた産声だった。






◆◇◆◇







「姫様ー。姫様ー?」


トトッと軽やかな足取りが近付いてくる。
送られてきた文を手持ち無沙汰に眺めていた瞳が、御簾の向こうへと投げ寄越される。


「あぁ姫様。こちらでしたか」


侍女の一人が御簾を捲り上げ、曹司の中へと滑り込んでくる。


「右衛門(うえもん)?なに?」


右衛門と呼ばれた侍女が畳に膝を付き、懐から柔らかな山吹の料紙を差し出してくる。
上質な陸奥紙(みちのくにかみ)を花の油脂で染めた、何とも鮮やかな色合い。
常ならばこれほどに雅やかな文を受けたとあらば喜びに頬を染めて然るべき。
だが文を受け取る少女──リョーマの表情は冴えない。


「また?」


困惑も露わな呟きは、広げた文から零れ落ちる花弁に消える。
山吹の見事な花弁が幾筋か文の間を零れ落ち、リョーマの纏う萌黄の襲(かさね)にヒラリと舞った。


『陸奥の
 さきゆく華ぞ
 居待月
 夢にとぞ見ゆ
 葛城の君』


流麗な筆跡(て)によって綴られた歌。
居待月とは、満月を過ぎて月の出が常よりも遅くなるために酒でも酌み交わしながら月の現れを待とうという意味合い。
この文もまた、月の名という意味合いではなく、待つという意味合いを強く示唆しているのだろう。
そして最後の葛城(かずらぎ)の君。
葛城の君とは昔話として今に伝わる話の登場人物だ。
見るに耐えない程の醜男が一人の女に恋し、自らの顔が見えない夜にだけ女の元に通い、日の出とともにその身を消したという。
それ以来、夜に現れ朝には立ち去る男を葛城の君と形容するようになった。
しかしこの文は恐らく。


[道端に咲く華を横目に先を急ぎながら、今か今かと貴女を待っています。夢の中にまで貴女を見るのに、こんな私の姿では……]


要約するならばこのような内容なのだろう。
『さきゆく』とは『咲きゆく』と『先行く』を掛けた言葉だろう。
手の混んだ文の様相といい歌の情熱的なことといい。
文の主は如何な貴人であろうか。
しかもこの文は今回だけにあらず。
既に十通にもなる。
だが、不思議なことに誰からの文であるのか、今だに解らない。
どんなにリョーマが返歌をしたためようとも、相手が解らなければ届けようがない。


「ほんと……誰なんだろ……」


名も素性も解らぬ贈り主。
幾多の文にも勝る鮮やかな想いを刻んだそれを胸に抱き、リョーマの唇から深い吐息が零れた。
通り名すらも判然としない文の主を想い、ただリョーマはこう呼ぶ。
“連華(れんか)の君”。
それは、文にいつも挟まれてくる、美しい花びらに準えたもの。













今日もまた、文が届けられた。
今日は薄紅の料紙に色付き始めた桜の花びら。


『望月を
 をかしたるこそ
 かなしけれ
 逢坂山の
 名にぞ能わず』


[満月を愛でることこそを愛しいと思うのに、逢瀬を名に持つ逢坂山すらも、私には場違いなのです]


先に続き、やはり焦がれる想いを綴る流麗な筆跡(て)。
吐息とともに文を抱き寄せ、畳の上に身体を倒す。
常の姫よりは短くとも、胸元まで伸びた黒髪は容易に畳へと散らばった。
見上げた天井は、変哲を見せぬ景色。
しかし、見上げる瞳が揺らぐから、そこは酷く遠く見える。


「逢いたいなら……逢いにくればいいのに……」


平安を謡うこのご時世。
気に入った女性(にょしょう)がいたならば屋敷に通い、想いの丈を告げるのが常。
所謂夜這いといわれるものが日常的に行われているのだ。
これだけ情熱的な想いを傾けてくれるならば一日くらい通ってくればいいのに。
コロリと身体を転がし、再び文に視線を落とす。
凛とした、美しい筆跡。
これをしたためた男はどんな人物だろう。
溢れんばかりの想いを綴るのに逢いにいくことが出来ないと苦悩する。


「名前も……知らない……」


何も知らない。
どんな顔をしているのか。
どんな声で囁くのか。
どんな瞳で見詰めてくるのか。
どんな物を好むのか。
知りたい。
でも解らない。
もどかしさは募るばかり。
料紙から香る微かな花の香りに包まれ、ゆっくりと瞼を閉じた。













髪を何かが撫でている。
ゆっくりと抜けていってはまた絡んで行く。
心地いいのに、どこかヒンヤリとした感触。
ぼんやりと浮上していく意識の片隅で、唇に弾力のある何かが触れた。


「やっと……時が満ちた」


耳に心地良い甘やかな美声。
こんな声に歌を囁かれたならば、それこそ心の全てを奪われそうなほど。
“連華の君”も、こんな声の人であったなら。
覚醒していく意識の中、浮かぶのは想いを綴り続けてくれた数多の文。
どんな人なのだろう。
逢いたい。
胸に拡がる恋慕を握り、重い瞼をゆるゆると開いた。


「……?」


まず、目に付いたのは見覚えのない景色。
というより、一面の漆黒。
調度品も、畳も、天井すら見えない、ただ果てしない闇。
まだ夢でも見ているのだろうか。
そう思って何度も瞬きを繰り返したが、景色は変わらない。
そして、漸く異常な状況にあるのだと理解した。


「起きたか」


跳び起きようとした身体は、傍らから響いた美声に硬直する。
視線だけを巡らせて声を追って──息を呑んだ。
目を瞠るような、美丈夫。
切れ長の瞳は深い鳶色。
スッと通った鼻梁。
柔らかな色素の薄い髪。
その全てが絶妙に絡み合い、人外とも言えるほどの美しさと硬質さを醸し出している。
そしてその感想は間違いではないことを、次の瞬間には理解した。
耳が、尖っていた。
人にあらぬ、妖の印。


「っ!」


なぜこんなところに鬼が。
なぜ自分は鬼の元にいるのか。
一気に押し寄せる疑問と恐怖。
髪を梳く男の手にすらも恐怖し、必死に振り払った。
弾かれて宙に放り出された男の手は、鋭利な爪を携えて。
ゾクリと身体が戦慄いた。


「俺が、恐ろしいか?」


クッと堪え切れぬ失笑とともに、頬に添えられた指先。
ビクリと跳ねた肩は畏怖の証。
頬の形を確かめるように滑る指先。
爪で傷付けぬよう、慎重に。


「やっと。やっとお前をこの手に抱ける」


渇望を言葉にして。
不自然に硬直した小さな身体を腕に抱き込まれる。
鼻孔を擽る香は、聞いたこともない酷く甘ったるいもの。
意識が、グラリと揺らいだ。


「待っていたぞ。お前が俺を求める日を」


ガンガンと鳴り響く警鐘。
頭の中で眠ってはならないと叫ぶ自分がいるのに。
思考が霞んで、視界が薄れていく。
暗く沈む瞳の中、美貌の鬼がうっそりと笑んだ。


「葛城は日の下に現れることは叶わない。ならば、心寄せる玉の緒を夜に引き入れればいいだけだ」


葛城の君。
自らを醜いと嘆いた男を描いた物語。
そしてそれは。
鬼でありながら人の姫に懸想した、哀れな男の物語。






◆◇◆◇







それは数十年前。
密やかに交わされた契約。
倒れかけた一族の発展を願う頭首と、美貌の鬼の間に。
鬼は頭首へと告げた。


『一族の繁栄を約束しよう。その代わり、次に生まれた女を妻にといただく』


そして、こう囁いた。


『娘が十と二を数える年、娘の心をいただこう』


契約は、果たされた。




END


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