──試合しよう。手塚


それは、初めて見た心からの微笑みだった。






◆◇◆◇







ガラリと開いたドアの向こう。
ビーカーやフラスコなどの器具が所狭しと連なる一室。
その片隅に、蹲る背中。
真新しい白衣を羽織り、机に突っ伏しているソレは酷く頼りなく見える。
視界に映り込む光景に溜息を一つ吐き、小さな背を揺すった。


「先生。起きてください。越前先生」


軽く揺すった肩は細く、少し強く握れば折れてしまいそうだ。
しかし、声をかけられた当の本人は僅かにむずがったのみで起きる気配はない。
再び、漏れる溜息。


「……起きろと言っているんだ。ここで襲われたいのか」


ガラリと変わった口調。
冷ややかにすら見える眇た瞳に、偽りなし。
しかしやはり目の前の白い塊が起きる気配はなく。
学ランを纏う侵入者──手塚の口端が僅かに上がった。


「ん……んぅ……」


延ばされた手塚の手は、曝された白い項を滑り。
スルリと前へ。
二十三という年齢の割に小振りな胸を柔らかく包み込み、白い項へと口付けた。


「ゃ……んっ……?」


ピクリと華奢な肩が跳ね上がり、ノロノロと動き出す黒髪。
構わずに項へと噛み付けば、短い悲鳴が鼓膜を叩いた。


「ちょっ!てづ……何やってんだよ!」

「起こしにきてやったんだが?」

「普通に起こせ普通に!どさくさでセクハラすんなマセガキ!」

「最初は普通に起こしてやった。起きない貴様が悪い。それに前もって宣告はした」


威嚇する猫よろしく。
見事な身のこなしで手塚の手から抜け出し、怒声を浴びせるリョーマにシラッと返答。
自分は間違っていないと言外に主張。


「アホ!学校で妙な真似すんなっ!」


紅潮した頬のまま騒ぎ立て、気を取り直すように前髪を掻き上げる。
白衣の下にはワイシャツとスラックス、黒のネクタイ。
男のような格好をするリョーマは、れっきとした女だ。
しかし、スカートは好まないらしく専ら男物ばかりを着用する。
校内でもそれは有名で、既に周知の事実だ。
更に、彼女が大の寝太助であることも。
担当教科である化学準備室は勿論、保健室、屋上、果ては部室でまで眠る。
もはや眠り姫と渾名されるほど。
そして、何時もそれを起こすのが手塚の役目。
周りは手塚が真面目である故の行動と信じて疑わないようだが、真実はコレ。
寝込みを襲うのが日課だから。


「アンタは俺をクビにしたいの?」


溜息混じりに吐き出し、リョーマの指が髪を離れ乱れた白衣をバサリと翻す。
胡乱に細められた視線に鼻先の嘲弄を吐き出せば、滑らかな線を描く顎を上向かせる。
覗き込んだ琥珀はジトリと細められ、手塚の肩までしかない小さい体格差故に追い詰められた体躯は机に寄り掛かるのみ。
逃げ道なく手塚の顔を正面に見上げるリョーマが、僅かに片眉を跳ねさせた。


「お前をクビにするぐらいなら無能な教師連中を先に消しているに決まっているだろう?」

「……アンタってホント自己チューで俺様」

「何とでも」


この瞳は常に真っ直ぐに見上げてくる。
どんな時でも。
強い眼差しは、いつでも毅然としていることを誰もが知っている。
けれど。


「……雨……降りそう」


時折。
本当に僅か数秒。
瞬きの刹那に。
その瞳がどこか遠くを見詰めることは、手塚しか知らない。













諦めなければならない物があると、知らなかったわけじゃない。
けれど、自分には関係のないことだと。
無関係なのだと雲の上を見詰めているようで。
いつだって信じてきた。
だから“あの時”、世界が崩れ落ちた気がした。
諦めも納得も出来るほど大人じゃなくて。
ただただ責めた。
誰を、ではなく、全てを。
そして、背中の半ばまであった髪を、切った。
二度と握らない、ソレとともに。













「──先生?」


帰路に着こうと部室を出た手塚の視界の端に、白い布がちらついた。
常ならば部員たちで賑わうテニスコートの、そのフェンスに。
それがいた。
外界とを隔てる頼りない壁。
焦がれるように細めた視線。
もどかしげにフェンスに添えられた指先。
そして、あの遠い瞳。
なぜか、消えてしまう錯覚を覚えた。
それほどに哀愁を帯び、そして美観だった。
まるで一枚の絵のように。


「せん……」

「ねぇ、手塚」


声を掛けようとして。
遮られた。
一度もコチラに振り返らなかったのに、当たり前のように名を呼んでくる。
視線は、コチラに向かないままで。
フワリと風が吹き、白衣を揺らした。
沈みかけた茜色。
柔らかな色彩が、奇妙な陰影を作り出す。
長い睫毛に縁取られた瞳が一度緩慢に伏せられ、そうして手塚を映し出す。
夕日を背に微笑むその瞳は、未だ希薄。
はためく白衣が、静かにその羽をしまった。


「試合、しよう」


それは、初めて見た心からの微笑みだった。
心からの、悲しい微笑み。













違和感は、高校に入った直後に起きた。
少し試合をしただけで動悸が激しく、呼吸が上がった。
けれど、大したことはないと。
暫くすれば収まると気にかけなかった。
次に異常が現れたのは約一ヶ月後。
胸に走る刺すような痛み。
気を抜けば呼吸を奪われてしまうような。
そして、異様に溢れる汗。
徐々に異常を拡大する身体。
けれど、そのいずれも休憩すれば収まる程度。
首を傾げながら、それでも問題はないだろうと流してきた。
だが、運命はその時既に決まっていた。
自らの預かり知らぬ場所で。













「大丈夫か」

「ん……」


ベンチに横たわり、頷きを返すリョーマの表情は、見えない。
左腕に覆われた目許のせいでどんな目をしているのかが解らない。
唐突な試合の申し入れ。
断ることも出来たが、手塚はそれを承諾した。
向けられる微笑みがあまりに悲しいから。
断ったなら二度と手が届かなくなるのではと。
言い知れぬ不安に苛まれた。
そして始まったワンセットマッチ。
化学教師であれど、七年前まで高校・中学女子テニス界に君臨し、アメリカの全米オープンを最年少で制覇した『サムライ・クイーン』の異名を持つリョーマのテニスは、壮絶だった。
全ての球、全てのポジション。
あらゆる不利要素も全てひっくり返して、飲み込む。
守りなど端から念頭になく、攻撃こそが最大の防御であると切り込んでくる。
どんなに揺さ振っても、どんなに振り回しても。
追い付き、食らい付き、突き刺さってくる。
テニスの試合に於いて、これほどに高揚したことが果たして今まであっただろうか。
何をしても決まらない。
常に際どいボールばかりがコートに突き刺さる。
一瞬たりとも気が抜けない。
苛立つとともに酷く心地いい。
永遠にこの瞬間が続けばと、ガラにもなくセンチメンタルに浸りたくなるほど、それは異様な興奮を手塚に齎した。
そして、始まった第三ゲーム。
高々と上げられたトス。
白衣から延びる指先。
茜の陽光を背に伸び上がるその姿は、網膜に焼き付き。
あまりの美しさに、息を呑んだ。
しかし、ボールは手塚のコートに刺さることなく、リョーマの傍らへと力無く落ちた。
ゆっくりと傾く身体。
蹲った華奢な身体がコートに沈むのを、スローモーションのように眺めた。
苦しげに喘ぐ呼吸。
握り締められた胸元の布。
異常なまでの発汗。
ただ事ではないと、一目で理解した。


「……隔世遺伝……なんだって」


ベンチに横たえられた身体をそのままに、ポツリと零れ落ちる言葉。
視線だけを彼女に向ければ、目許を覆っていた腕は既に脇に垂れ下がり。
琥珀の瞳が手塚を見上げた。


「前に手塚、俺に聞いたよね。何でテニス辞めたのかって」


聞いた時、彼女は僅かに瞳を細めたのみで答えてはくれなかったけれど。
見上げてくる視線がゆるりと瞬き、桜色の唇が緩く弧を描く。


「俺の母さんの母さん、祖母がさ。心臓の弱い人だったんだ」


茜に揺らぐ白。
対比となる二つが緩やかに混じり合う。


「異常を感じたのは高校に入った後。急に動悸が激しくなって、息も上手く出来なくなった。その後は胸に異様な痛みを感じ始めて、汗が異常に出てきた」


瞬きを、一つ。


「最初はそれでも気にしてなくて。部活を続けてたら、ある日突然息が出来ないくらい胸が痛くなって。そのままコートに倒れた」


スィと空を見上げ、額に乗せた腕。


「そのあと、運ばれた病院の医者に言われたんだ。心臓の、疾患だって」


抑揚もなく。
どこまでも淡々と。


「親父も母さんも健康そのものなんだけどさ。ばぁちゃんの心臓、そのまま俺に遺伝しちゃったらしくて」


隔世遺伝とは、世代を隔てた遺伝のこと。
例えば祖母の特徴を子が受け継がず孫に遺伝する、といった具合に。
それは瞳の色だったり輪郭だったり、様々だ。
しかしそれは何も外的要素だけではない。
免疫力や持病、アレルギーや内蔵機能など、遺伝確率のあるものは遺伝の可能性を持っている。
そう語るリョーマの言葉に、手塚はただ無言のまま耳を傾ける。
リョーマと同じ虚空を眺めながら。


「俺、普通の人より運動量が多かったらしくて。ばぁちゃん譲りの心臓がそれに耐え切れなくなったらしい。それで」


見上げた空の彼方で、微かな藍が混じり始めた。


「テニスは、二度と出来ないって言われた」


吹き抜ける、風。
強いそれが、そよぐ白衣を音を立てて弄んだ。


「最初は、納得いかなくてさ。がむしゃらに試合、しまくってたんだ」


懐かしさも、悲しみも。
滲まない語り。


「でも、大体第五ゲーム前後でガタがきちゃってさ。いっつも最後まで試合が出来ないんだ」


見下ろした幼さを残す風貌は──微笑んでいた。
あの瞳で。


「諦めたつもりだったんだ。……ううん。諦めた。でも、手塚のプレイ見てたら、どうしてもやりたくなって」


声音は何の感情も滲ませてはいないのに。
表情の悉とくがそれを裏切っていた。


「ねぇ。手塚」


延ばされた指先が、頬を滑って。


「テニス、楽しい?」


慈しむように、目を細めるから。
頬に滑る指先を奪って。
抱きしめた。


「可能性を……諦めるな。アンタは、諦めなくていい」


背中に回る腕。
細く、片手で握り込めてしまう小さな腕。


「アンタの爆弾は、アンタ次第で幾らでもその威力が変わる」


抱きしめた身体は少しだけ体温が高くて。
震えていた。


「だから……自分から諦めるな。恐れるなとは言わない。恐れていい。でも立ち直れる可能性に目をつぶるな。俺みたいに……なる前に」


響く声に湿り気が混じって。
震える肩に続く嗚咽。
藍に染まる空。
憎らしいくらいの快晴の下。
手塚の胸元は、冷たい雨に濡れた。






◆◇◆◇







柔らかな唇が降り注ぎ、閉じた瞼の上を何度も往復する。
睫毛を押し上げ、瞼に触れ、頬を食む。
悪戯をするように唇に触れたソレは、まるで羽のようだ。


「……ねぇ。だから」


されるがままに瞳を閉じていたリョーマが、緩やかに眼前の人物──手塚を睨み上げる。


「アンタは本気で俺をクビにしたいの」


睨み上げてくる瞳は猫そのもの。
喉奥に沸き上がる笑みを噛み殺し、おまけと額にも唇を。
懲りないのかと険しくなる表情。
本当に毛を逆立てた猫だ。


「俺なりの礼だと言ったはずだが?」

「いらないって言ったはずなんだけど」


ふいと逸らされた顔。
学生と言われても疑いなど抱かないほどに幼い顔立ち。
丸みのある頬を撫でれば、視線だけがコチラを仰いだ。


「ドイツに……。卒業したらドイツに行く。プロになるために」

「え……」


見開かれた瞳。
驚愕。
そして。


「そっか……」


破顔。
愛らしい風貌をクシャリと崩して、微笑む。
泣き笑いのようだ。


「頑張ってきなよ。自分がどこまでいけるのか」


そしてそんなことを言うから。
再び引き寄せて、奪う。
今度は遠慮なく。


「んっ!っ……んっ……」


舌を絡ませて、華奢な身体を抱き寄せて。
そうすれば手塚の胸元を叩いていた手が力を失い、学ランを握るようになり。
眉を寄せてコチラを睨んでくる。
そして、応じてくる。
逃げ腰だった舌は途端反転。
こちらを飲み込もうと絡み付いてくる。
それは……経験の差なのだろうか。
はっきり言って、上手い。


「ぷは……」


離れた唇の間から、透明な糸が伝い途切れる。
手塚は唇を拭うリョーマを凝視し。
リョーマは眉根を寄せたまま手塚を睨み上げ。
そうして、微笑。


「まだまだだね。ナメんなマセガキ」


ベッと舌を出して背を向ける。
その仕種が妙に幼くて。
思わず失笑。


「……ねぇ」


ゆっくりと、翻る白衣。
視線だけで呼び掛けに応じれば、差し出される拳。


「勝てよ。絶対」


ニッと唇を吊り上げて。
女とは思えないほど挑発的で、酷く蠱惑的な笑み。
手塚の唇から吐息だけで笑みが零れ、同じく拳を作った。


「誰に向かって言っている」


コツンと突き合う拳。
それでいいと頷く瞳。
そのまま身体を屈めて耳元に唇を寄せて。


「世界を制したら、迎えに来てやる。それまで誰にも堕ちるなよ」


囁けば、キョトンと目を瞠る。
そうすれば実年齢より五歳は若く見えると、どうでもいいことを思った。
そして、漏れる笑み。


「俺、待つの嫌いなんだけど?」

「なら、三年で制してきてやる」

「言うね」


フッと笑う琥珀。
一瞬、強い光が悲しげに光った。


「ま、三年だけ待ってあげるよ。それ以上は一秒も待たない」


窓の外に放られた瞳。
どこを見てるのか。
どこも見てないのか。
瞳に映るのは、きっと二人違う景色。


「……だから」


ギュッと、握り締められる拳。
見上げてくる視線は悲しみを称えているのに。
どこか喜びを滲ませて。
そして、手塚の詰襟を引き寄せて触れるだけのキス。


「絶対……諦めるな」


離れる間際、その白く丸い頬に一筋の線が滑り落ちた。













君のために出来ること。
きっとそれほど多くなどないだろうけれど。
伝えることは出来るから。
同じ道を歩まないでください。
同じ苦しみを味あわないでください。
君はまだまだ飛べるから。
君は俺の希望だから。
だからねぇお願い。
君は君のために。
そして俺の願いのために。
大きな羽根を羽ばたかせて。
大きな空へと飛び立て。
君が望むなら見上げるから。
高い空を恐れず見上げるから。
いつかきっと。
この隣に君が降りてくる。
その日まで──。




END


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