ブーンッと低い振動音を上げる箱。
濃いオレンジ色の光を放つ内部では狐色のものがムクムクと膨らんでいく。
窓からそれを眺めていたリョーマが満足げに吐息を零して。
キッチンと繋がるダイニングへと視線を投げた。
「遠山ー。出番」
声を投げればパタパタと聞こえる軽やかな足音。
次いでキッチンに文字通り飛び込んできた子猿──遠山金太郎が電子レンジの前に立つリョーマに飛び付いた。
「ホンマ?ホンマ!?おーっ!ムクムクしとるわーっ!」
リョーマの肩越しにキラキラと目を輝かせる金太郎の声は、はっきり言ってデカイ。
至近距離から、しかも耳元で騒がれては耳が痛いというものだ。
リョーマもまた例外ではなく、迷惑そうに顔を歪めて傍らからレンジを覗き込む金太郎の横顔を睨み付けた。
「なぁなぁコシマエ!あとはシャカシャカしたら終わりやろ!?早よ食いたいわー!」
「……」
しかしそんな無言の抗議が通じるはずもなく。
ワクワクと身体を跳ねさせる金太郎にリョーマの方が早々に白旗を上げた。
「はいはい。早く食いたいんだったらさっさと生クリーム作ってよ」
「任しとき!」
深々とした溜息を吐きながら金太郎を引きずりレンジの前から退散。
現在リョーマはケーキ作りの真っ最中。
しかもここは金太郎の自宅だ。
前もって言っておけば、本日は決して金太郎の誕生日などではない。
ついでに言えば記念日などでもない。
ではなぜケーキを、しかも他人の家で作っているのかといえば。
それは目の前で嬉々と生クリームを泡立てている金太郎の思い付きから始まった。
☆
全国大会も終わり、部活の引き継ぎも終えた10月。
新体制に以降された後、漸くテニス部全体が落ち着いてきたこの頃。
男子テニス部のマネージャー兼トレーナーであるリョーマは母・倫子の都合で4日ほど大阪へと訪れることになった。
リョーマだけを東京に置いていくという選択肢もなくはなかっただろうが、弁護士時代の旧友からの呼び出しは中々に切羽詰まったものであったらしく、帰宅の日取りが確定しないもの。
しかも最初の数日間は南次郎の同行も必要であったため、リョーマは3日、ないし4日も一人で過ごさなければならなくなる。
中学一年の娘をたった一人何日も──しかもいつまでかかるか解らない──東京に残すのは心許なかった。
故に、それならばせめて南次郎が帰る時まで同行させようと決定した。
そして大阪に訪れた際、全国大会の折に交流を持った遠山金太郎に連絡を入れたのだ。
するとあれよあれよという間に大阪滞在の間、遠山家にお世話になることが決まり、両親が当初の目的である仕事に赴いた折はリョーマは四天宝寺の部活を見学したりと有意義な時間を提供された。
そうして、滞在2日目の日曜日の昼間。
金太郎とともに眺めていたテレビが有名スイーツの特集をしており、食欲旺盛な金太郎は食い入るようにこれに見入り。
そしてリョーマへとこう宣ったのだ。
『わいコシマエの作ったケーキ食いたい!』
と。
☆
金太郎の気紛れと頑固さに折れ、ケーキ作りを渋々承諾したリョーマだが、生クリーム作りは金太郎へと押し付けた。
テニス選手としても一流──むしろ中学女子テニス界No.1──のリョーマだが、流石に生クリームの泡立ては苦手だった。
腕の力も人より弱いというのに、この作業は事もあろうに手首を酷使してくれる。
幾らテニスで手首のスナップが利いているとはいえ、疲れるものは疲れる。
こんな面倒事をやらせているのだから生クリームくらい自分で作れと金太郎には条件を付けた。
しかし。
「……失敗した」
目の前で繰り広げられる凄惨な光景。
生クリームの原液は無残に飛び散り、砂糖は傍らで見事に散乱している。
泡立て器片手にボールと格闘する金太郎自身は、どうしたらそうなるのかと疑いたくなるほど真っ白。
頬と言わず服と言わず生クリームだらけだ。
額を押さえて首を振るリョーマの心情は推してしかるべし。
「……遠山……」
「コシマエー!こいつめっちゃベチャベチャやー!」
それはお前が砂糖と塩を間違えて入れたからだ。
しかも間違いに気付いた後に分量の倍近くの砂糖を突っ込むからだ。
もはや『生クリーム?』と疑問符を付けたくなる代物だ。
むしろ『元生クリーム』と言ったほうがしっくりくるだろうか。
「もういいよ。アンタに任せた俺が悪かった」
嘆息してボールと泡立て器を奪い取り、洗い場に置く。
後で纏めて洗わなければ。
もう一つ大きな溜息を吐いて予備に買った生クリームを新しいボールに開ける。
砂糖を混ぜてシャカシャカと混ぜ始めれば、金太郎がキラキラとした目を向けてきた。
「……何」
「なんやコシマエ、オカンみたいやな」
誰がいつお前を産んだ。
腹の中だけでツッコみ、手元の生クリームに視線を移す。
まだまだ時間はかかりそうだ。
「えぇなー。コシマエみたいなオカン欲しいわ」
「アンタのお母さんのほうが全然いいと思うけど」
金太郎の母は中々豪快だ。
細身だが恰幅のいい浪花の母ちゃんといった感じだ。
でなければたかだか息子の友人というだけの自分達を家族丸ごと家に招いたりはしないだろう。
「せやけどー。んーせやなくて」
「そうだけどそうじゃないって何」
もはやまともに取り合うだけ無駄とばかりに返答は投げやり。
僅かに硬さを持ちはじめた生クリームが手首に重い。
そろそろスポンジも焼き上がる頃のはずだ。
チラリとレンジを見遣れば残り3分の表示。
もう少しだ。
「せや!」
唐突に目の前で声が上がり、今度は何だと視線を返す。
そこには、テーブルに乗り出してきた金太郎の顔のアップ。
「っ!」
予想以上の至近距離に思わず泡立てる手が止まった。
金太郎の顔はニコニコと無邪気な子供のそれ。
他意ない金太郎の表情に、動揺した自分が無性に情けなく感じて。
荒々しく生クリーム作りを再開した。
「今度は何思い付いたわけ」
「あんな!あんな!」
ぶっきらぼうに問えば心底楽しげな返答。
生クリームもそろそろ本格的に堅くなってきた。
「コシマエみたいなオカン欲しいねんけど、わいコシマエの子供になれへんやん」
「当たり前じゃん」
「せやからな!コシマエがわいの嫁さんになったらえぇんや!」
「はいはいそーだね」
右から左に金太郎の言葉を聞き流して、適当な相槌を返す。
が。
ピタリと、手が止まった。
今、この猿は何と言ったか?
母親の話題だったのは解る。
自分はそれをサラリと流した。
問題はそのあとだ。
この子猿、遠山金太郎は今。
自分を嫁にするとかほざかなかっただろうか。
幻聴か?
幻聴なのか?
あまつさえ自分はそれに謀らずも同意しなかっただろうか。
気のせいか?
気のせいだよな?
うん、気のせいだ。
真っ白になった頭で何とか自己完結。
よし生クリーム作りを再開だ。
完全に先の会話を忘却の彼方に押しやったリョーマの前方で。
しかし現実は非情だった。
「っしゃーっ!せやったらコシマエはわいのカノジョやな!コイビトやコイビトー!」
飛び上がって喜ぶ金太郎の隣で、チーンとレンジのベルが鳴った。
あぁスポンジ出来た。
もはや金太郎をアウト・オブ・眼中でケーキ作りに逃避する。
十分に堅さを持った生クリームを泡立て器で引き上げ、角が立つかを確認。
よし大丈夫。
泡立て器に付いたクリームを指先で掬い取ってペロリと一舐め。
甘さもこんなものだろう。
もう一掬いクリームを取って口に運べば、目の前から手が延びてきた。
「コシマエ!18ンなったら結婚しような!」
告白通り越してプロポーズされたよ。
ってか遠山、結婚出来る年齢知ってたんだ。
というか色々おかしくないか?
いや、おかしいからこその遠山か?
っつうかいい加減俺の名前覚えろよ。
もう何でもいいよ。
好きにしてくれ。
もはや無我の境地だ。
テニス以外で到達できるとは思わなかったなぁ、と明後日を見上げるリョーマの目は遠い。
しかし遠山はとことんマイペース。
いや、空気を読まない。
ニカニカと無邪気な笑みをそのままに、ペロリと生クリームを舐めるリョーマを見詰める。
そして。
「あ、コシマエ!わいにもクリーム食わしてや」
「はいはい解ったから手ェ離せよ。じゃなきゃケーキにクリーム塗れな……──」
リョーマの言葉は最後まで続かず、瞳は零れ落ちんばかりに見開かれる。
目の前には幼くも愛らしい少年の顔。
自分の唇には、湿った温もり。
金太郎の舌が、リョーマの唇を舐めた。
キスというにはお粗末な、しかし事故というには自主的すぎるその行為に、リョーマの行動が完全に止まった。
「ん!んまい!やっぱコシマエ凄いわ!」
舌が離れ、思わず口許を覆ったリョーマを前に、金太郎はどこまでも無邪気だ。
今の行動とて本当にリョーマの口に付いた生クリームを味見しただけなのだろう。
発火せんばかりに熱い頬のまま金太郎を睨んでも、悪気も下心も何もない彼には無意味。
ワクワクと瞳を輝かせる金太郎を前に、結局はリョーマが折れるのだ。
そして、取り出したスポンジ。
フワリと香ばしい香りが充満して、酷く食欲をそそる。
何度目になるか知れない溜息を吐き出し、生クリームを塗り付け始める。
甘い甘い香り。
無邪気に笑う金太郎。
気付けば苦笑を浮かべていたリョーマの頬が僅かに赤らんだのは、飾り付けられた苺だけが知っている。
◆◇◆◇
金太郎の気紛れから始まったケーキ作り。
何の記念日でもないはずのこの日が、謀らずも記念日となる。
二人の『恋人記念日』。
二人で分け合ったケーキは甘く柔らかく。
食す二人もまた、甘く柔らかな笑み。
小さなカップルはまだまだこれから。
END
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