鬼の霍乱、とはよく言ったもの。
現国の厳つい先生が熱を出したとか、めちゃくちゃ怒鳴りまくる生徒指導員が貧血起こしたとか、そういう意外な弱さを指したコトワザなんだとか。
俺は初めて、その言葉を口にしたくなった。






◆◇◆◇







ドサリと音を立てて荷物を下ろせば、シンと耳を侵食する静寂が俄かに遠退いた。
目の前には、皮張りの豪奢なソファ。
腰掛けるのは────。


「……景吾」


名を呼んで、足音が近付く。
トサリと軽やかに腰が落ちれば、重みに革が微かに偏った。
リョーマが跡部邸に呼ばれたのは、今から二十分前。
自宅で寛いでいた最中、けたたましく鳴いた携帯。
億劫に出てみれば、発信者は恋人の跡部──ではなく。
慣れ親しんだ跡部家の執事から。
初老の少しくたびれた声音が謝罪を告げ、そして跡部家への訪問を願い出てきた。
口から出るのは、溜息。
そして瞬きの間に現れた迎えの車に乗り、跡部邸を訪れた。
理由は、リョーマも知らない。
聞いていない。
けれど、解る。


「景吾」


部屋は明かりを持たず、外から漏れ込む青白い光だけが頼り。
跡部の表情は、見えない。
暗いからじゃない。
俯いているからだ。


「景吾」


名を呼び、自分よりも上にある髪を撫でる。
ピクリと、空気が震えた気がした。
髪を梳いて、頬を撫でて。
ゆっくりと指先を端正な輪郭に滑らせて、見えない形を肌で知る。
シャープなラインを滑り、ゆっくりと指先を離す。
けれど、離れる直前に指先が囚われ、叶わない。


「……行かないよ」


リョーマの唇を零れ出たのは、あまりにも穏やかな音。
離れぬように小さな手を握り締める男へと伸ばすのは、自由な右手。


「俺は、何処にも、行かない」


ゆっくりと。
一つ一つ、区切りながら。
跡部に、届くように。


「ここに、景吾の隣に、ずっといる」


左手を捕える大きな手が、震えた。
ゆっくりと身を寄せて、自分よりも大きな恋人を抱きしめる。


「だから、いいよ。大丈夫」


跡部の頭を抱え、胸に抱き込む。
相変わらず表情は見えない。
けれど、それでいい。
崩れた姿は、本人だけが知っていればいい。
リョーマはそれを決して見ようと思わない。
見る必要もない。
だって彼は、“場所”があれば立ち上がれる。
リョーマは跡部にとっての居場所。
だから、跡部は自分で立ち上がれる。
手を差し延べる必要は、ない。
跡部は振り払ってしまうから。
哀れむ必要は、ない。
跡部は弱くないから。
ただ腕を広げて、居場所を与えればいい。


「ここにいるから」


胸元に縋る男。
子供のように頼りなく、親の温もりを貪る雛鳥のような。
柔らかな銀糸を梳けば、背に回された腕が──静かにその強さを増した。













「おい。おい!起きやがれテメェ」

「んー」


ペチペチと間抜けな音。
そして滑らかなハイヴァリトンの美声。
頬に走る微かな痛みに顔を顰めて見せれば、厚めな吐息が聞こえた。


「っとに寝起きの悪ぃ女だな。襲っちまうぞ」

「んー……ぶっ殺す」

「……起きてんだろテメェ」


軽口も愛嬌のうち。
欠伸混じりに瞼を持ち上げれば、あまりの眩しさに目が眩んだ。


「オラ。起きろよ。テニス、付き合ってやるぜ?」


高慢な笑みを吐くその美貌。




眩しいのは差し込む陽光?
それとも……────






◆◇◆◇







貴方はとても優秀な人。
傲慢で完璧で美しい人。
でもね、貴方は“完璧”であって“完全”じゃない。
完全じゃないから、時折どうしても膝を付きたくなる。
そんな時は、呼んでいいよ。
いつでも俺はここにいる。
いつでも貴方の場所になる。



だから俺にも見せていて。
目も眩むほどの、貴方の微笑みを。






-END-


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