音を辿るように向けた視線の先には、しっかりと寝支度を済ませた白石。
健康と完璧を好む聖書様は濡れ髪が許せないらしく、色素の薄い柔らかな髪はしっかりと乾いている。
先ほども風呂上がりに軽く水気を拭っただけのリョーマを呆れ混じりに呼び寄せ、丁寧にドライヤーをかけてくれた。
しっかり乾かさなければ風邪をひくとかなんとか小言混じりの声を聞かされながら、黒髪をさらさらと梳ずられたのはほんの数十分前のこと。
乾かすのが面倒だからと濡れ髪で戻ったリョーマだったが、次の宿泊でも濡れ髪でいようと密かに決めた。
どうやらリョーマの健康を気遣って髪を乾かした白石だったが、少女は髪を乾かしてもらうことそのものがお気に召したらしい。
これによって近い先、白石のブローテクはカリスマ美容師をも凌ぐまでに上達することになるのだが、それはまた別の話だ。
「んで?さっき嫁がなんやゆうてたけど……またオカンたちになんや言われたん?」
キシリと、ベッドが傾く。
傍らに掛かった負荷にリョーマの身体が僅かに左に沈んだ。
夕食時の会話を手元に帰したのか、白石の問いには微かな苦笑。
入浴中にまた母たちに迫られたのではと危惧しているらしい。
サラリと伸ばされた長い指先に髪を梳かれる感触に目を細めながら、リョーマの首が否定にフルと二度振るわれた。
「別に?ただこの部屋とか見てたら俺と蔵だったら蔵のほうが嫁っぽいなぁって」
「は?旦那やのうて?」
「うん嫁。てか主婦?」
クスリと、少女の口端が上がる。
傍らへと顎を上げれば、切れ長の瞳が丸々と膨らんでいるのが見て取れた。
鳩が豆鉄砲とは、きっとこういう顔だ。
「なんで俺が嫁やねん……」
唖然としていた白石の口が漸く絞り出したのは、脱力感をふんだんにふくんだ台詞。
端正な柳眉が力無くハの字を書く様が可愛いと、小さな唇がフフと吐息を一つ。
クスクスと喉奥を笑みに震わせたリョーマの容貌が、傍らを覗き込む。
「掃除もできて料理もできて面倒見がよくて収納上手。そのうえ顔もルックスも最高級。これだけできた嫁捕まえられて俺って幸せものだよね」
「あんなぁ……」
言っている台詞自体はこれ以上ない賛辞なのに、称賛された当の本人は微妙な心境。
向けられた琥珀の視線があまりにも可愛いらしく、そして揶揄溢れるものであったから。
期せず、子猫が毛玉を見付けて尻尾を揺らす様が白石の脳裏に浮かんだ。
「結婚式は蔵がドレス着たほうが似合うんじゃない?スタイルいいしマーメイドドレスとかさ」
「うわアカン。それはアカン。想像したない!」
「大丈夫。俺タキシード似合うから」
「せやなぁリョーマは別嬪やし……ってちゃうちゃう論点ちゃう!」
「小春ちゃんならノリノリでドレスアップしてくれるよ」
「ホンマにやりそうやからやめてくれ」
クスクスと楽しげに笑うリョーマの隣で、白石の頭がガクリと落ちる。
どうやらうっかり想像して気分が悪くなったらしい。
相変わらず包帯の巻かれた左手で顔を覆い、盛大なため息。
「うっわ。俺の隣で溜息とかいい度胸だね」
「えぇぇ……」
肩を落とす白石にわざとらしく不快を告げれば、彼の柳眉が再びハの字。
理不尽や……なんて呟きが聞こえたが、リョーマの耳は鮮やかに聞き流した。
大袈裟に俯垂れた青年の丸まった背を眺めながら、クスリと新たな笑みを一つ。
ベッドに付いた左手が、傾いた少女の体重に応じて微かにキシリと鳴いた。
そうして引き締まった形のいい肩へと、自らの頭をポスリ。
俯く白石が、顔を上げた。
「俺が蔵にどんな衣装着せようが俺がどんなに恰好いい衣装着ようが、式挙げんのは決定事項なんだけど?それに溜息とか失礼だと思わないわけ?」
白石の態度に対する抗議は、口端だけを笑みに彩る唇から。
揶揄るようなアーモンドアイが視線だけで青年を見上げる。
「罰としてお色直しは蔵も参加ね。もちろん俺の用意したドレスで」
「女装から離れてぇな」
肩越しに合った視線。
クスクスと冗談混じりに笑い合えば、白石の右腕がリョーマの腰にスルリと回された。
「……ついでに誓いのキスの練習でもしとく?」
リョーマの浮かべる笑みが、色めく。
引き寄せられた身体を素直に預けて青年を見上げれば、端正な顔が甘く笑み返してくれた。
絶頂絶頂と連呼する割に手を出してこない白石とは、未だキス止まり。
会える回数があまりにも少ないから、交わしたキスもそう多くはない。
けれど、交わされた数回のキスで覚えた白石の感触は、色濃い。
ここは白石の実家で、彼の部屋。
もしかしたら進展するのかな……なんて、期待とも不安とも取れない感情に胸を揺らしながら。
落ちてくる美貌から逃れるように、琥珀の瞳がその瞼を下ろし────
バァンッ!
「クーちゃん!風呂上がったら言うて言うたやんかー!」
触れる唇を待ち侘び、震える瞳を閉じた刹那。
けたたましい音ともに甲高い少女の怒声が室内に反響した。
遠慮も容赦もなく叩き付けられた声の主は、見なくともわかる。
白石の妹である、友香里だ。
どうやら白石が入浴終了を伝えなかったことに対して、憤然と抗議を叫びにきたらしい。
実に兄妹らしい理由の来訪は、微笑ましく仲が良いと言えるのだろう。
普通なら。
それはいい。
それはいいのだが。
「あ……ごめん。お取り込み中やったん」
「ゆ……友香里……」
ギシギシ。
リョーマの鼓膜に、白石の首が軋む音が聞こえた気がした。
きっと今、白石の顔はこの上なく強張っているのではないだろうか。
かくいうリョーマは、ドアの音に驚愕して目を見開いたまま白石の顔を凝視し続ける。
端正なその顔に見とれている──のではない。
闖入者を直視できないだけだ。
「なんや、しゃあないな。お邪魔虫は撤退せな馬に蹴られるわ。お邪魔様ー。あ、クーちゃん明後日なんか奢りや!」
お陰でドラマ観れへんもん。
去り際に不満を漏らしながら、パタリとドアが閉じる。
次いでパタパタと遠ざかる軽やかな足音。
遠ざかった足音がどこかのドアを開き、バタンと閉じた。
ほんの数秒で訪れ、去っていった嵐。
友香里の奇襲に硬直した室内は、闖入者を失ってなお現状維持。
チックタックチックタック。
沈黙に構わず壁掛け時計はリズミカルなラップを口ずさむ。
ドアを向いたままの白石と、彼の横顔を向いて視線だけ明後日に逃がしたリョーマ。
更に数十秒。
沈黙。
そうして、時計の秒針が頂点を過ぎた頃。
漸くギシギシとぎこちなく、二人の顔が動き出した。
オイルの足りないロボットのような所作で振り向いた二人が、同時に視線を絡ませる。
また沈黙。
そして。
「ぷっ……」
「ふっくく……」
顔を見合わせたまま、二人で笑い合う。
コツリと額をあわせてみれば、新たな笑いにクスクスと互いの肩が揺れた。
「ちょっと焦ったね」
「今度からノックせぇて言うとくわ」
「まだまだ、だね。俺達も」
なんとなくコソコソ。
秘め事のように微かな声音で囁き合えば、なんだかいけない気分。
額を合わせたままに白石が軽く顎を上げれば、ちゅっと可愛らしいリップノイズ。
戯れに触れただけのキスは、擽ったい。
また、クスクスと笑い合った。
「寝よか」
「ん」
ベッドは一つ。
両親から借りた布団は床。
でもそれは畳まれたまま行儀良く壁際に。
小さな身体が白石のベッドに潜り込めば、長い腕が腰に回る。
自然密着する距離。
寝具とは違う温かさに、フワリとリョーマの胸が暖まる。
「蔵」
「ん?」
モゾリと身じろいでリョーマが顔をあげれば、存外間近に恋人の顔。
カッと上がりそうな体温に、彼の胸に再び顔を押し付けることで逃げる。
埋まった胸の中、リョーマの腕が白石の背へと伸びた。
「続きは……また今度ね」
「え……」
背に回された細い腕が、ギュッと強まった。
何の、とは告げない。
きっと白石にはわかっているから、と。
キスの先はまた今度と言った、その意図を。
見えていないのに、リョーマには白石が目を見開いたのが手に取るように解った。
頬を押し付けた胸が、ドクリと跳ねたから。
けれど、それは一瞬。
頭上にフと笑みが聞こえたのは、その直後。
「また今度な」
サラリ。
髪が梳かれる感触。
包む温もり、柔らかな指先、穏やかな声、そして熱い顔。
そんな優しい声をだすな、とリョーマの瞳がキュウと伏せられた。
黒髪を梳く指先が、フと止まる。
代わりに、フワリと落ちてくる温もり。
頭皮に触れた唇に、琥珀が片目を開けた。
「明日は観光、いこな。……おやすみリョーマ」
穏やかな音。
再び両手で抱きしめられ、リョーマの身体はスッポリと白石の腕の中。
寝る体制に入った白石を、上目だけで伺えば柔らかな目が微笑み返す。
キュッと白石の背で、パジャマが小さな皺を作った。
「……おやすみ、蔵」
また、明日。
◆◇◆◇
可愛いあの子と素敵なあの人。
ご家族方のご印象は如何かな?
準備は万端。
まだまだ駆け出しかもしれないけれど、二人はまだこれから。
近い未来に想いを馳せて、明日は彼の故郷を巡りましょう。
可愛いあの子と素敵なあの人。
純白のシーツの中に、その日を夢見て……────。
-END-
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