【Side 〜T〜】





風があまりにも冷たいんだ。
そう言ってしまえるだけの愚かさが必要だった。






◆◇◆◇







温い空気が肌を包む。
湿気を含んだそれは幾許かの不快感を齎しながら、それでも懸命に涼を運んでくれる希少な貢献者。
もっとも、不快感の度合いで言えばアチラとは比べるべくもないのだが。
大きく開け放たれた口が厚みのある空気を吸い込んでは、体内を冷やそうと躍起。
取り入れた涼は体内を走り抜け、開け放たれた喉へと抜け出る仕組み。
熱は早めに冷ましましょう。
とはいえ実質、温かな外気が吹き込むお陰で室内外の気温にさしたる差異は見込めそうもないのだけれど。
昇り始めたばかりの月はさも気怠げで、淡すぎる光は周囲すら染めやしない。
フワリと、髪が揺れた。


「…………」


フと上げた視線の先。
揺れる並木の葉。
眼鏡を介さない視界の中、ぼやけた世界はいっそ頼りない。
あぁ……と溜息ともつかぬ音。


「……そうか……」


フワリフワリと踊るカーテン。
悪戯好きな大気は求めた涼をそっちのけで、キャッキャと走り回る。
覚束ない世界はどうにもおぼろで、見える全ての色が滲んでいる。
水気の多い絵の具で描かれた景色は、目を細めたところで油絵には変わりようもない。
また、髪が揺れた。
剥き出しの腕を撫でられるその感触に、右手で肌を摩る。
ここの風は、冷たすぎた。


「……暑いな……」


漏れた声は、吐き気がするほどに冷静だった。













幾ら景色が変わろうと、世界に変化は起きない。
たった一人の脆弱な人間が、人の定めた国境を跨ごうとも。
その点、世界はとても優しい。


「…………」


向かった机は、常より少し低い。
自ら誂えた物ではなく支給品なのだから、それは仕方のないこと。
広がるは、使い慣れた一冊のノート。
簡潔な日々の記録が綴られたそれは、一日の締め括りに欠かせない。
かれこれ十三代目を迎えるそれらは、男の気性の投影そのもの。
常にはサラサラと揺れるペン先。
堅苦しくてとても綺麗な字が生まれ、過ぎた日々を綴る。
けれど、握ったペンは居場所を定めたまま。
一文字たりとて生みださないソレが、紙の中心に居を構えたまま不動の構え。
動かざること山の如しとは、誰の軍略だっただろう。
不意にトンッ……と、ペンの頭が紙を叩いた。
途端、静かに男の背を見詰めるだけだったカーテンが、ブワリと舞い上がる。
レース地の薄い布がフワリフワリ。
分厚い風が無遠慮に室内を走り抜け、手塚の脇をすり抜ける。
温く厚みのあるそれに、ペンが指先から逃亡。
文字は、文を為すことなく生まれることを止めた。
瞬きを一つ。
役目を放棄した視界を机から引きはがし、滲んだ世界をゆっくりと辿る。
あぁ……と再び吐息。
どこまでも優しい世界はどうしてこうも白々しいというのか。
そういえば彼女に別れを告げていないと、初めて思い出した。


「…………」


罪悪感はない。
そもそも互いを束縛できる立場に、手塚と彼女──リョーマはない。
ただの好敵手。
追うものと追われるもの。
だからこそ、誰より互いを知っている。
罪悪感などない。
リョーマは手塚が旅立った理由を、誰より理解しているはずだから。


「──……なぜ……」


覗いてはならないソコに、見つけたものは?
綴られない日記がパラリと明日を指し示した。






◆◇◆◇







風が冷たいんだ。
そう言ってしまえば楽なのに。
現れては何処かへ走り去っていく君は、この手を擦り抜ける。
そしてまた、日記の空白が増えるのだろう。




【Side 〜T〜】
-END-


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