触れ合うたびに増えていく痕。
きっと、気付かない。
◆◇◆◇
濃紺の外套が空に翻る時間帯。
そこかしこに点されていた明かりが一つ、また一つと消えていく頃。
甘く吐き出される吐息の一つ一つが白く色付きそうな錯覚。
濃密な気配が満ちる部屋の中で、キシリとスプリングが鳴いた。
「ん……ね……ちょっと……」
囁くような声音。
整わぬ呼吸は厚みある吐息を含み、呼び掛けるだけの音に淫靡な気配を纏わせる。
甘く掠れたアルトヴォイスの上げる小さな抗議は、それよりも小さいはずのリップノイズに掻き消された。
ピクリと跳ねた白い腕が、背にたゆたうシーツを頼りなげに握った。
「もっ……痕……付けんな!」
抗議の意図も明らかに華奢な腕がシーツを離れ、目の前に聳える壁を押し退けにかかる。
けれど細い腕二本では壁は微動だにせず、紅く小さな唇がクッと引き結ばれた。
壁が揺らめき、直後に響く微かな空気の摩擦音。
否、揺れたのは壁などではなく────
「……嫌なら引きはがせばいいだろう」
逞しく引き締まった肉体を持つ、男。
華奢な四肢をしどけなく投げ出した少女の身に乗り上げ、その白磁の肌を思う様なぶる暴君。
その口元には堪え切れぬ笑みに釣り上がる。
不可能な提案をしては楽しげに
幼い少女──リョーマの肌に唇を寄せ、リップノイズをもう一つ。
微かに漏れた掠れた吐息は、酷く色付いて空気を染めた。
「もっ……っ加減にしろ!このムッツリ眼鏡!」
男の唇が鎖骨をなぞり始めた頃、少女の怒気が弾けた。
男の胸板へと握った拳をドカドカ連打。
加えて時たま後頭部にも衝撃。
リョーマの細腕ではさしたるダメージはない。
だがそれは一発あたりの話。
間髪いれずに連打されれば、普通に痛い。
胸への衝撃に噎せかける気管を気力で押さえ込み、男──手塚の体が少女を解放した。
「……最悪……明後日体育あるのに……」
解放された身を起こし、自らの身を見下ろしたリョーマの声は苦々しい。
一矢纏わぬ白い肌に、点々と散る愛噛の痕。
それはリョーマ自身からも見える場所──胸から下の至る場所に散っている。
恐らくは自らの見えない場所、首やら鎖骨やらにも同じような光景が広がっているのだろう。
苦虫を数匹噛み潰すリョーマの瞳が、恨めしげに傍らの男を睨めた。
この手塚という男、性欲の欠片もなさそうな顔をしてなかなかの絶倫である。
一度縺れ込めば一発や二発で済んだ試しがない。
その上、手塚には毎度毎度リョーマを悩ませる“癖”がある。
それが、コレ。
体を重ね、身を繋いだ後。
手塚は必ずリョーマの体に痕を付ける。
首と言わず鎖骨と言わず、背中や太股に至るまで所構わず。
幾ら拒否を叫ぼうと、既に恒例となりつつあるソレは着々とリョーマの肌に刻まれていくのだ。
小振りな胸の狭間に付けられた真新しい痕をなぞり、紅い唇が引き結ばれる。
リョーマとて、本気で嫌なわけではない。
想いを寄せる男が付ける痕なのだ。
むしろ嬉しくもある。
しかし、だ。
それはいつも一方的。
手塚がリョーマに残すだけ。
リョーマは手塚の肌に何も残せていない。
それが酷く悔しい。
けれどそんなこと、言えるはずもない。
だから最もらしく『体育』を口実に拒否を示すのだ。
胸に蟠るモヤモヤを、悟られないように。
「なんでいっつも……俺ばっか……」
咲いたばかりの手塚の軌跡に軽く爪をたて、零れた言葉は無意識。
キュウと収縮する心臓がツキリと痛む。
軽く噛んだ唇がキリと微かな音を立てた。
「付けたいならば付ければいい」
俯いた視界が反転したのは、その直後だった。
甘い美声が何事かを囁いたかと思えば、唐突に腕を引かれ途端に崩れる体の均衡。
引かれるままに上体が倒れ込めば、シーツとは違う温もりと固さに肌が触れた。
「な……」
倒れ込んだ先は、手塚の胸の上。
いつの間にかワイシャツを引っ掛けていた手塚が、その胸にリョーマを引き寄せる。
突然の恋人の暴挙に目を白黒させるリョーマが、大きな目を更に大きく見開いている。
こぼれ落ちそうだ、とは手塚の感想。
リョーマの腕を捉えていた手が、解かれる。
そうしてそれはうっすらと開かれた少女の紅い唇へ。
「付けたければ、幾らでも付ければいい」
柔らかな感触を指の腹でなぞり、再び発された言葉。
噛んで含めるように、殊更ゆっくりと発された言葉の、その意味は。
「……っ」
カッと、リョーマの頬が発火した。
手塚の言葉の意味が、理解できたからだ。
それはつまり、リョーマの抱いた不満など手塚にはお見通しであったということで。
リョーマ本人としては、恥ずかしいどころの騒ぎでは、ない。
穴があったら地中深くに埋まった上に蓋をしてやりたいくらいの衝撃だ。
今すぐ逃げ出したくなる衝動。
しかしリョーマが起こした行動は、赤くなった目尻をキリと吊り上げ、手塚を睨めること。
そして頬を撫でる大きな手を、勢いよく払い落とすことだった。
「……悪趣味っ」
「寛大の間違いだろう」
精一杯の悪態も至極楽しげな鳶色の瞳に受け流される。
いつもそうだ。
リョーマはこの男に勝てない。
主導権を全て奪われる。
恥ずかしさといたたまれなさと、ほんのちょっとの嬉しさと。
ゴチャゴチャと入り乱れる感情が胸をグラグラ煮え立たせる。
突き上げる衝動のままに、目の前の逞しい胸板に噛み付いた。
「っ……おい。付けるならキスマークにしろ。俺は歯型を付けた覚えはない」
「うっさい」
勢いよく噛み付いた肌はうっすらと赤く浮き上がり、くっきりとした歯型の出来上がり。
痛みに片目を歪めた手塚の抗議はピシャリと叩き落とすことにする。
しかし、衝動に任せて噛み付いたはいいが少し強く噛みすぎたようで、歯型の端に微かに血が滲んで見えた。
手塚の肌に残るリョーマの足跡。
初めて付けた自らの軌跡に、幼気な白い頬がふわりと綻ぶ。
歯型の描く曲線を指でなぞり、瞳を細めた。
そうして、赤く浮かぶ血へと唇を寄せる。
慰撫するように赤い舌がペロペロと傷を舐め、顔をあげるとともに聞こえた小さなリップノイズ。
見下ろしたそこには赤く描かれた傷痕。
胸に沸き上がる充足感。
そして、リョーマの興味はその傍らへ向かう。
くっきりと浮き出た傷一つない鎖骨。
その窪みへと身を寄せれば、その肌をペロリと一舐め。
キスマークを付けたことは、ない。
けれど新雪に足跡を刻む感覚にも似た昂揚感が胸を衝く。
それはきっと、想う人に己を刻める喜び。
いつも手塚にされることを頭に反芻しながら、存外に滑らかな男の肌を愛でた。
キスマークを付ける相手自身がお手本として教鞭を振るっているだなんて、おかしな話だけれど。
ゆっくりと、唇を寄せる。
触れれば意外に肌理細かい手塚の肌。
唇に触れたその肌をキュッと吸い上げてみる。
少し強めに吸って、数秒。
プハッと唇で空気を弾かせて離れれば、形のいい鎖骨の中にうっすらとした痕が辛うじて見えた。
目を凝らさなければ見逃してしまう──否、付けた本人でなければ解らないほどに薄いソレは、鬱血というよりはただの跡。
本人としては強めに吸ったつもりだったのだが、少し吸い方が足りなかったようだ。
ムゥと唇を尖らせて、不満げな琥珀の瞳が薄い痕をなぞる。
「……歯型なら一発でついたのに」
「やめろ」
「ぅぶっ!」
今にも噛み付きかねないリョーマを、脇から伸びてきた手が即座に阻止。
艶やかな黒髪をたっぷり有した後頭部が大きな掌に捕まり、そのまま顔を押し付けられた。
唐突なことにおかしな声がリョーマの唇を突いたが、それは不可抗力というものだ。
「んー!は、にゃ、へ!」
「離した途端に食いつかれかねんからな。却下だ」
顔が押し付けられているため、リョーマの発音は無残なものだ。
モガモガと暴れる体を片手で押さえつけつつ、手塚の判断は翻らず。
押さえる手も緩みそうもない。
そうなればリョーマに出来ることなど、一つだ。
暴れていた細い手が、パタリと落ちる。
諦めたように静まった手は、手塚のワイシャツをキュッと握った。
そうして、首元に押し付けられている顔が、僅かにモゾリと動いた。
──ガリッ
「っ!」
本日二度目の痛みに思わず手塚が呻いた。
首元──鎖骨の僅かに上の皮膚に感じる痛み。
手塚からは黒い後頭部しか見えない。
が、見ずとも解る。
「…………」
無言の溜息を上げた手塚が、押さえ付ける手を緩やかに揺らした。
緩やかに、揺れる黒髪を梳ずる。
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