──否、違う。
虫じゃない。


「ゆ……」


指だ。
人の。
それも子供の、丸くて短い。
ピクリとも身じろがぬソレは、襖の縁を掴んだまま。
時を止めたかのように、ジッと。


「っ……」


声にならない。
言い知れない恐怖と畏怖に、声帯が上手く機能をしない。
足もまた、針金を飲んだように脳の命令を拒絶する。
人の気配などしなかった。
物音など聞こえなかった。
ずっと襖の目の前にいたのに、動いた事に気付かなかった。
違う、襖は動いてなどいない。
唐突に、突然隙間が現れ指が顔を出したのだ。
魔法のように。
叫び出したいのに。
逃げ出したいのに。
声が、足が、体が、言うことを聞かない。
見たくない、見てはいけないと解っているのに。
襖にかかる白い指先から、目が離せない。


「あ……ぁ……」


怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
逃げなければ。
叫ばなければ。
目を逸らさなければ。
恐怖に強張った体を震わせ、怯えを絞り出す。
思う様にならない足を叱咤し、懸命に後ずさろうと試みる。
けれど視線も外せず足は根を張ったまま。
襖の指もまた、微動だにしない。
異質な膠着。
しかし、リョーマの足が不自然ながらも漸く一歩後退出来た頃。


──テン……テンテン


「あっ!」


右手に抱えた鞠が、場違いに軽やかな音を板間に響かせた。
反射的に鞠を目で追ったリョーマが、短い悲鳴を吐く。
あれほど外せなかった視線と凍り付いた喉が、鞠の逃亡によってあっさりとその役目を取り戻した。
鞠が、軽く身を弾ませてリョーマの一歩後ろへと転がった。
遠くへ行ってしまわなかった事へ、知らず息を吐く。
鞠の逃亡によって、先までに感じた恐怖や怯えは一瞬にして霧散した。
否、意識が別の物に向いた事で軽減されたのだろう。
恐怖感は未だ残れど、震えるほどではなかった。
そうして何気なく鞠から視線を前方に戻した、その時。


「え……」


唖然と、琥珀の瞳が見開かれた。
指が、跡形もない。
襖自体、隙間無くピッチリと閉じられ指を差し込む隙間などなく。
初めてここに訪れた時──和浩に食事を運びに来た時と、何も変わらない。
悠然と、年季を語る和紙が佇むだけ。


「み……間違い……?」


呆然と襖を見詰める。
襖を閉めた音などしなかった。
人の動く気配もしなかった。
となれば、あの異様な光景は幻だったのだろうか。
怖い怖いと無意識下で怯えていたから、あんなものを見たのだろうか。
女性の凄惨な死に様を目にしたその衝撃で、あらぬ幻を見てしまったのか。
凝視しても襖は静かに佇むのみで、僅かな身じろぎすらしない。


「見間違い……だよね……?」


誰にともなく呟いて、己を奮わせる。
そうだ。
見間違いだ。
そうに違いない。
胸中に己を諭し、繰り返す。
そうだ、見間違い見間違い。
突然指が襖から覗くわけがない。
それなら普通顔を出すはずだ。
自己完結に安堵の息を肺から送り出し、眉尻を下げる。
問題解決とばかりに落とした鞠を拾い上げようと、振り返った。


「ッ!!!!」


クルリと反転した、その足元には……──。


『お姉ちゃん』


鞠を手にした──狐の少年。
少年の手が、テン……と鞠を一つき。


『時間だよ』


くぐもった声が、見上げる。
絶句し硬直した少女を見上げ、狐の面が嘲笑った。
少年の指が、ユルユルと持ち上がる。
愛らしい容貌を驚愕や畏怖に彩るリョーマのその奥に向け、少年が右手の先を突き出した。
気付けば、リョーマの佇む場所は板間から畳の上へ。
そして少年が指差した先には────。


「────いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!!」


一面の畳の海。
草の仄かな香を齎す筈のそこには。
生臭い異臭を放つ、顔を失った肉塊が、一つ。
スーツを纏った男らしきソレは、削られた顔の断面の所々からプスプスと生臭い液を吹き出させる。
吹き出した赤黒い液は首を滑り、ジワジワと畳の色を変えてはその面積を拡大する。
そしてグシャグシャに乱れたスーツの腹からは、見るも悍ましい内腑が飛び出し無造作に散らばっている。
それはその光景の凄惨さを強く彩る。
顔を失った男の服は涎かけのように赤く染まり、その異様さを助長した。


「────」


フ、と。
リョーマの体が正体を無くす。
ドサリと臥した畳の上に、艶やかな黒髪が散った。


『……迎えに、来たよ』


──お姉ちゃん


面の下で、少年の唇が吊り上がる。
伸ばされた幼い手が、散らばる黒髪を撫でた。






雨音も風も、ここには聞こえない。






act.4
-END-


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