人の家であり、何処に目があるかも解らぬこの場所。
流石に傍若無人で名を馳せた手塚であれど色事に及ぶ気が削がれたか、或いはアクシデントによる心労か二人が床に就いたのは十二時より少し前だった。
雷鳴の咆哮に怯えたリョーマが手塚の布団に擦り寄り、大きな胸に身を寄せて眠る。
それは幸福な絵面。
愛しい温もりに包まれて沈む眠りの淵は、この上ない安堵の象徴。
一筋の閃光が、音もなく駆け抜けた。


──チリィン……


「……ん……」


微かな声が、小さな唇を擦り抜ける。


──チリィン……


長い睫毛が、フルリと震えた。


──チリィン……


ゆるゆると、鮮やかな琥珀が現れる。
重たげな瞬きとともに睫毛を震わせ、睡魔に蕩けた瞳も艶めかしく。
白布に散る黒髪が、ゆっくりと滑った。
手塚の胸から身を離し、布へ付いた手で僅かに上体を起こす。
寝乱れた浴衣が胸元を淫靡に晒し、ハラリと流れ落ちた黒髪が艶やかさに色を添えた。


──チリィン……


睡魔にけぶる瞳と頭のままに、重い瞬きを一度。
なぜ、起きてしまったのだろうと。
疲れていた筈なのに、なぜ目が覚めたのだろう。
眠りの淵を彷徨う思考が、クルクルクルクル同じ疑問を繰り返す。
体が重い。
疲れと睡魔に鉛のようだ。
もう一度寝てしまうべきだ。
そう、解っているのに。


「──ッ!」


声ならぬ驚愕とともに、それは塵と消えた。
僅かに起こした上体。
見えるのは、手塚の端正な寝顔と入口。
そして──剥き出しの、子供の足。


「っ……」


声帯が麻痺を起こしたいびつな静寂の中、ゆっくりと視線を上らせる。
そこにあったのは、真っ白な浴衣を纏った──狐の面。
無表情の狐が、ただジッと。
無機質な漆の瞳でリョーマを見下ろす、その異様な光景。


「ぁ……」


カラカラに乾いた喉が、掠れた声を搾り出す。
子供が、見下ろす。
ただ、ジッと。
狐の瞳が、見下ろす。
ただ、シンと。


「ぁ……の……」


驚愕に張り付いた喉がこじ開けられ、無様な音が転がり出た。
何を言うべきか、解らない。
何を問うべきか、解らない。
突然の事に。
この異様な光景に。
凍り付くリョーマが幾度目だろうか、唇を空回らせた頃。
狐が、クルリと反転した。
そのまま、走り出した。


「っ──待って!」


走り出した子供の背へ、横たえていた体を起こした。
スルリと手塚の手をすり抜け、襖を開け放つ。
見渡した廊下は、明かり一つない暗闇。
その片隅に、白い残像。


「待って!」


パタパタパタ。
走る子供。
追い掛けて、追い掛けて。
角を曲がり、部屋をすり抜け、縁側を下り、庭を抜け。
走る子供。
追いつかない。


「待って!」


何処を走ってきたのか。
今何処にいるのか。
解らない。
けれど、追い掛けなければ。
せき立てる衝動のまま、白の軌跡を辿る。
痛いほどの雨が、土を足を体力を抉る。
頭上に閃光が閃く度に鮮明に映り込む白、白、白。
追い掛けなきゃ。
追い掛けなきゃ。
あの子は何処?
あの子はドコ?
あの子はあの子はあの子はあの子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子はアノ子は──。


「ッ!!!!」


不意に。
足が取られた。
ヌルリとした泥に足先が奪われ、右肩に衝撃。
同時に、意識がパチンと弾けた。


「……あ……れ……?」


体に走った衝撃とともに蘇る思考回路。
そして初めて、肌を刺す雨を冷たいと思った。


「俺……なんで……」


こんな所にいるのだろう。
泥に汚れた右半身。
靴も履かず、泥に塗れた足。
背に張り付く黒髪。
いったいなぜ、こんな所に……?
混乱、困惑、混迷。
呆然と、起こした体を座り込ませる。
いったい今、自分は何を……──。


『──お姉ちゃん』


不意に、背を撫でる幼い声。
くぐもったソレは酷く不安定で、そして澄んだ音。
額に頬に打ち付ける雨の針を受けながら、ゆっくりと振り返る。
漆黒の闇夜に浮かび上がる、白。
狐が、笑う。


『……一つめ……』


狐が笑う。
空が嗤う。
子供の足を埋め尽くすばかりの赤い赫い花、華、はな。
瞬く蒼白な哄笑。
浮かぶ赫白赫白赫白赫白赫白赫白……──。


「────きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!」


雨に聳え、誇らしげに腕を広げた曼珠沙華。
赤く紅く深紅く夜闇に狂い咲く。
燃える萌える華の中に。
流れ流れる深紅い真紅い華と水。
曼珠沙華の茵に抱かれたは、花弁に混じる赫。
閃光に浮かぶ腕。
投げ出された髪。
打ち捨てられた足。
瞬く哄笑の中映し出されたその顔は──皮を剥ぎ取られた肉の断面だった。






◆◇◆◇







細い針のように重い雨が、バチバチと弾ける。
透明な傘は既に雨粒に埋もれ、空を臨めない。


「こら酷いなぁ」


咲き誇る曼珠沙華の中、いっそ感嘆とした呟きが零される。
寝起き故かいつもの眼鏡はその目許になく、レンズを介さぬ鋭利な瞳がスィと細められた。
その彼の傍らには、泣き崩れるリョーマ。
薄桃の浴衣は既に泥に染まり、特に右肩はその被害も酷く無事な布もまた余す所なくその色を濃色へと変えている。
今でこそリョーマは手塚の胸に縋ってはいれど、彼等が駆け付けたときには泥の中にしゃがみこんでいた。
泣きじゃくり、錯乱した様相を見せる彼女は誰が何を言おうと聞く耳を持たずただ怯えるのみ。
見兼ねた手塚が無言でリョーマの腕を引っ張り上げ、服が濡れるのも構わず華奢な体躯を腕に捕えた。
そして、リョーマを手塚に任せ忍足は曼珠沙華の中へと進んだ。
リョーマを恐慌させた原因を、知るために。
けれどそれは、忍足をして想像を絶する物だった。
横たわる姿は、人間の女のソレ。
曼珠沙華畑をベッドに転がったその姿は肌という肌を蒼白に染め、まるで蝋人形。
赤い華の上に横たわるその様相は一種の葬儀のように見えなくもない。
そこにあったのは、間違えようもない死体。
既に生を失った、生物の成れの果てたる肉塊。
けれど、忍足をして異様と言わしめたのは──その様相。


「うっわ……顔……エラい事ンなっとんなぁ……鼻ン骨まで真ッ平やん」


死体には……顔がなかった。
まるで削られたように。
皮を剥ぎ取られ、眼球や肉が剥き出されるがまま。
そうまるで、魚を捌くように平行に。
顎を拠点に額に至るまで、その凹凸の一切を切り取られ剥き出された肉。
いっそ見事なまでに平面と化した断面。
固い鼻の骨までが揃えられたソレは、異様以外の言葉などない。


「こんな物を目にされたのであれば……無理もありませんね」


透明な傘の下、柳生が肩越しに瞳を細める。
手塚に縋り付き、支えがなければすぐにでも崩れ落ちてしまうだろう華奢な体を震わせる。
そのあまりに悲愴な姿に、柳生のみならずその場に集った者たちが一様に胸を痛めた。
丑三つ時ともあろうこの時間。
雷雨も勢いを増したこの天候の中、彼等が野外へ走ったのは──絹を裂く悲鳴が響いたから。
そしてその悲鳴が、愛しいリョーマの物と解ったから。
こんな真夜中、それもこんな嵐の中で──と疑念を抱きつつ駆け付けた彼等が見たのは異様な様相の死体と錯乱したリョーマ。
異常事態と察すれば対応の早い彼等と言えどコレには戸惑ったものだ。
そして、何とか収拾が付き忍足の検死と相成ったのだが。
やはり異常事態は解決せぬまま。
死体の異質さも加わり、突然降って湧いた奇怪現象にただ首を捻るのみだ。


「なんだって死体がこんなトコにありやがる。っつか誰だコイツ」

「さぁな。多分アイツちゃう?成金ホステスの……あー名前知らんけど」


死体のあまりの様相に顔を歪めた跡部へ、忍足が肩を竦める。
曖昧な返答しかしないのは、判別ができないからだ。
なにしろ、顔が存在しないのだから。


「詳しい死因は解剖せぇへんと解らんけど……もしかしたら……生きとったんかもな」


肉の断片を晒す死体の顎を指先で持ち上げ、忍足の視線は喉へ。
一直線に走る跡が、死体の首に醜い彩りを添えていた。


「絞殺……窒息した後に顔剥がれたんやったらえぇけど……気絶しただけやったらエラいことやなぁ。生きたまんま皮剥ぐっちゅう拷問も中世にはあったらしいし。ま、そんなんショック死確定やけどな」


白い軌跡すら見える細い雨が剥き出しの肉に刺さり、流れる。
顔から滴る夥しい血によって、周囲の泥は赤黒く変色。
その一角に滑るような軌跡が見て取れ、右肩を泥に染めたリョーマからもこの泥に足を取られたのだろうことは想像に容易い。

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