「おンやそうかい。そんだば災難やいねぇ」


食事は、屋敷の主であるキヨの到着とともに始められた。
白い髪は後ろで一つに纏められ、まるで猫の毛のようにところどころから短い毛がピョンピョンと跳ねている。
皺くちゃの顔は垂れてしまった瞼の影響で目が酷くポッテリとして見えた。
年とともに掠れた声帯からは酷く嗄れた声が漏れ聞こえるが、しかしソレを吐き出す彼女の表情は至極穏やかな崩壊を見せている。
昔話に語られる温和な老婆を彷彿とさせる彼女こそ、嘉代子の告げた河萩 キヨ。
クシャクシャの顔を更に皺に埋め、傍らに招いたリョーマへ震えた嗄れ声とともに歓迎を示す。
どうやら嘉代子のみならずキヨにもリョーマは気に入られたらしく、食事が始まるや否や上座へと呼ばれては先刻からしきりにシワシワの容貌が綻んでいる。


「リョーちゃんやったいねぇ……。おんにウチの子ぉになっちょっとったらほかんねぇ」

「……?」

「『本当にウチの子になってくれたらいいのに』、と言う意味ですよ」


皺だらけの顔をくしゃくしゃに崩したキヨの言葉は、地方独特の訛りが染み付いていて言葉を向けられたリョーマには少々難易度が高すぎた。
コトリと首を傾げたリョーマへ補足をくれた直哉が、眉尻を下げてキヨの背へと膝を進めた。


「ばぁちゃん。越前さんたちは明日には東京に帰るんだよ。だから、ウチの子にはなれないよ」


リョーマの髪を愛おしげに梳く年輪を刻んだ指先。
そのあまりの猫可愛がりぶりに、直哉の穏やかな容貌はやんわりとした苦笑の滲ませ、ささやかな正論を。
けれど、キヨは変わらずリョーマの髪や頬を撫でるばかり。


「ウチャん子ぉばならんねば、おもんだらよかねぇ。んだらウチャんおっとらぎゃ」


キヨの仕種は、少女が愛らしい人形を愛でる無邪気さによく似ている。
呟かれた言葉は例の如くリョーマには理解の出来ない地方訛りに固められいたけれど、キヨがとても気に入ってくれている事は、言葉が通じずとも十分に解る。
曾祖母ほどにも離れた年のせいか、それともキヨの雰囲気のせいか。
リョーマもまたキヨに好意的。
皺だらけの手に撫でられた頬をふんわりと綻ばせ、愛らしい容貌を咲かせる。


「ここの子にはなれませんけど……お休みが出来たら遊びに来ます。俺も皆さんが大好きですから」

「そんばごつ言わんどぎゃ。おもんだらよかね。そっだらウチん子ぉばなんねらねぇ」


くしゃくしゃになった顔をコクコクと頷かせ、リョーマの手を摩る。
相当にリョーマはキヨのお気に召したらしい。
けれど当のリョーマにはキヨの言葉がわからない。
再び困ったように首を傾けては、キヨの向こう側に控える直哉へと視線を投げ助力を乞うた。
けれど。


「あ、ちょっとゴメンね。ばぁちゃん。あんまり越前さんたち困らせないようにね」

「なぁんば言っと。ちがらっどもひかれっちょらんね」

「……はぁ。わかったわかった」


リョーマの要請も虚しく、直哉の足が立ち上がり広間を跨いでいく。
キヨに釘を刺してはくれたものの、彼自身の反応からしてキヨの返答は芳しいものではなかったようで。
再び向き直ったキヨの猫可愛がりに、リョーマから小さな苦笑が零された。
けれどキヨを拒絶しないのは、リョーマ自身彼女に好意を抱いているからだ。
好かれているのは喜ばしい事だ。
殊、キヨのような人柄なら尚更だ。
温和な彼女の微笑みを見ているとリョーマ自身にも穏やかな心地が沸き上がってくるというもの。
まるで本物の祖母のような──。
キヨと語らうリョーマに背を向けた直哉が、広間から廊下へ続く襖へと消えていく。


「やぁね。辛気臭い田舎の臭いが染み付きそうだわ」

「仕方ないさ紗耶香。食べられる物が出されただけマシだよ」


直哉の背を追うように殊更張られた耳障りな甲高い響き。
ピシリと閉まった襖の向こうから静かな足音が遠ざかる。
リョーマを失い寒々しい座布団の傍らで、手塚の瞳が襖を視界に留める。
嘲笑もあらわな成金たちが鼻を鳴らし、膳を突いていく。
近付く空の咆哮は、すぐそこまで──。













終始キヨに愛でられながらの食事を終えて久しく。
片付けを手伝ったリョーマが宛がわれた部屋に赴いたのは、夜の十一時を回った頃だった。
食事を終えたのが九時過ぎ。
それから膳を下げたり広間の片付けをしたりと──十六人分の後片付けは容易ではない。
ただの後片付けだけで一時間以上を費やし、その後嘉代子の計らいで風呂を頂いた。
宛がわれた薄桃の浴衣に袖を通し、部屋へと向かえば窓際に座した人が目に付いた。


「手塚さん?」


窓に面した障子を開け放ち、窓枠に片足を乗せて外を睨む男。
窓枠から外れた片足はその長さを誇示しながら気怠げに投げ出されるがまま。
男の名を呼びながらリョーマが静かに畳みを滑れば、仄かな煙草の臭い。
よく見れば窓枠に立てた膝の上には紫煙をくゆらせる煙草。
考えてみれば、河萩家にお邪魔してから早四時間。
ヘビースモーカーであるあの手塚が一本も煙草を口にしていない。
となれば就寝前の一本を嗜んでいるのだろう。


「お布団、敷いておきますね」


不機嫌に寄せられた眉を揺らす事なく、唸る空を睨みあげる手塚へクスリと小さな笑み。
その足で部屋の隅へ向かえば、水墨画を模した見事な肌を讃えた引き戸が出迎えてくれた。
雅な模様を描く襖をゆっくりと開き、綺麗に折り畳まれた布団をゆっくりと引き出す。
柔らかな質感とパリッとしたシーツの感触が心地好い。
布団独特の香が太陽を思い起こさせるようだ。
生憎の悪天候に見舞われた現状を鑑みれば、恋しいばかりの太陽の香りは十二分にリョーマの頬を綻ばせた。
伸ばした腕が飲み込まれるモフリとした感触。
埃が立たぬよう静かに広げていけば、比例して広がる日の香り。
畳みの香りと相まって、何とも心地よい。
嵐のただ中だというにも関わらず、日だまりに包まれている気分だ。
白い衣装を被った枕を手に、キョロと一度周囲に視線を滑らせる。
手塚は未だ、窓辺の住人。


「……北……どっちでしょう……」


二人分の枕を抱え、愛らしい眉をハの字に下げる。
初めての場所とはいえ、最低限知るべきはこの北向き。
自身はいいとしても手塚を北枕で休ませるわけにはいかない。
迷信や言い伝えを律儀に守るリョーマには、縁起の悪い──死者の寝床とまで呼ばれた北枕は絶対に避けたい事象だ。
そんなこと……と一笑されかねないことではあるが、誰しも好き好んで好きな人間に縁起の悪い行いをさせたいとは思わないだろう。
普段であれば月や太陽の位置で方角を割り出せるのだが、この大嵐。
天体による方角の測定は望めない。
この場に柳がいたなら方角くらい調べがついただろうが、寝床のために男性の部屋を訪ねるのも躊躇われる。
何より、時間が時間だ。
軽々しく尋ねていい刻限ではない。
かといって万が一北枕になってしまっては元も子もない。
微動だにしない手塚へ救いを求めて見ても、彼の人は視線すらもくれない。
困り果てたと瞳を揺らし、枕を抱きしめる。
一か八か、なんて出来ない。
それでもしも手塚に北枕を強いてしまったら……。
かといってこのまま眠らずにいるわけにもいかない。
いっそ恥を忍んで柳の知恵を借りてしまおうか。
苦悩とともに一つの妥協案を胸に抱き、抱きしめた枕を静かに下ろす。
シーツと同じくパリリと糊の聞いた布がパフリと空気を吐いた。


「……おい貴様」


と。
それまで窓辺の住人と化していた手塚から、低い唸り。
振り仰げば、紫煙を燻らせる煙草を指先に挟んだまま睨み付ける一対の瞳。
無言の威圧。
整った顔立ちである手塚の睥睨はそれだけで肌を焼くような迫力だ。
向けられたリョーマは、その瞳に圧されビクリと肩を震わせる他ない。


「貴様……俺を殺すつもりか」

「え……」


手塚の圧力の矛先が知れず、ただ震えるリョーマへ降ったのは、予想を甚だ逸脱した言葉だった。
一瞬パチリと瞬いた琥珀の瞳が、困惑に眉尻を落とす。
けれど。


「あっ……す……すみません!」


慌てて下ろした枕を拾い上げ、同時に布団を入口と直角に。
そして向きを変えた布団の入口側に枕を下ろした。
新たに吐き出された煙が、畳みの香りに混じる。
東は、日の出を臨む場所。













ガタガタと窓を揺らす風。
雷鳴は収まる気配を見せず、未だ空は憤怒を撒き散らすように。
時を告げる文明の利器はその身を以て刻む。
既に明かりなく、見渡す先には草木も眠ろう。
眠りに就く二つの膨らみ。

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