「リョーちゃんリョーちゃん!ちょっと手伝っとくれ!」


と、パタパタと一人走り回る嘉代子から、大音声。
手塚の体温と心音の心地よさに瞳を溶かしていたリョーマが、自らの仕事を思い出してかパッと身を起こした。


「あ、す……すみません」

「おや。リョーちゃんの旦那かい?いい男じゃないかい!」

「ッ!」


慌てて身を離したリョーマに近付く嘉代子は、皺だらけの温和な顔をニカッと崩しては人の悪い声音で手塚の背をバシバシと叩く。
突然の奇襲に思わずよろめいた手塚が嘉代子をギロリと睨むが、そこは年の功か。
あっさりと笑い飛ばされ、微塵のダメージも与えられはしなかった。


「じゃ、悪いけどリョーちゃん借りてくよ、旦那。なぁに、取って食いやしないよ。人手が足りなくてねぇ」

「嘉代子さん!」

「あっはっは!照れてんのかい?可愛いねぇ」


嘉代子の“旦那”発言にリョーマの頬は既に真っ赤だ。
豪快に笑う嘉代子がその背を押せば、今だ嬉し恥ずかしの面持ちのままリョーマの姿は襖の向こうへと消えた。
残された手塚は、ひっぱたかれた背が齎すジンジンとした熱にジットリと柳眉を寄せる。


「凄いねぇオバちゃんって。君をひっぱたいて無事に生きてる人間なんか僕と彼女くらいじゃない?」

「……死にたいか」

「あぁうん。遠慮しとく」


忍足に対する極刑が終わったのか、晴れ晴れとした表情の不二が手塚の背を叩いた。
ちなみに、不二が叩いた場所は嘉代子の平手を受けた場所。
しかも力いっぱい。
背に伸ばしたくとも届かない手を肩に置き、低く唸る手塚へ不二はニッコリと満面の笑みだ。
怖いもの知らずとは不二のためにある言葉であろう。


「まぁでも、あぁいうオバちゃんには流石の手塚も敵わないんだねぇ」

「……老い先短い老いぼれなど俺が何をするまでもない」

「そう?あの人百年は生きそうだけど」

「…………」


有り得ないと解ってはいるが、不二の言葉に頷いてしまいたくなる。
オバさんの力を改めて思い知った瞬間だった。






◆◇◆◇







嘉代子に導かれるまま、リョーマは厨房へ。
台に並べられた膳は残り十。
新たな膳を運ぶべく赤い頬に当てていた掌を朱塗りの膳に伸ばせば、その背に嘉代子からの待ったがかかった。


「ソイツは二階に運んでくれるかい?」

「え……二階……ですか?」


嘉代子の言葉に、サラリと黒髪が肩を滑る。
食事は皆、大広間で摂ると嘉代子が言っていた。
なのに、たった一つだけを二階に運ぶのだという。


「直ちゃんの下にもう一人坊ちゃんがいてね。和浩(かずひろ)ってんだけど、それが酷い人見知りでねぇ。お客さんが来ちまうといっつも部屋から出て来ないんだよ」


ホント困ったもんさ。
愚痴るように零された説明。
それに加え、嘉代子は続ける。


「あたしゃこの年だから。階段がキツくてねぇ。悪いけど……頼まれてくれないかい?」

「解りました。ご迷惑おかけしてしまって……すみません」

「あぁいいんだよいいんだよ。困った時はお互い様さ。こんな天気でアンタらみたいな若いモンほっぽり出したら化けられちまうよ」


深々と頭を下げたリョーマの頭をグシャグシャと乱し、嘉代子の豪快な笑みが降る。
驚いたように小さな声が上がったが、その仕種が妙に擽ったくて。
フニャリとリョーマがはにかんだ。
きっと祖母がいたらこんな感じなのだろう、と。


「じゃ、頼んだよ。浩ちゃんの部屋はソコの階段上がって突き当たりの右手さ。声かけて廊下に置いときゃ勝手に取ってくからね」

「あ、はい」


指し示された階段は、豆電球が二つ垂れ下がっただけの薄暗い場所。
頷いたと見るや新たな膳を手に大広間への往復を再開した嘉代子の傍らで、リョーマも依頼を遂行すべく朱塗りの膳を手に持った。
厨房を出てすぐに上へと突き抜ける階段は、黒ずんだ木目を曝した年代物。
時折唸り風に叩かれた天窓がガタガタと悲鳴を上げる。
一段、脚を乗せればキィと鳴いた。
着慣れない浴衣を踏み付けないよう慎重に昇れば、階段の鳴き声はゆっくりと間延びした物になる。
カタカタと揺れる窓。
空はまだ真っ暗。
天候回復は、まだまだ先になるだろう。
キィ……キィ……。
一段、一段と。
確かめるように、踏み外さないように。
ゆっくりとした足取りで進めば、漸く板鳴りが変化した。
階段を上りきったそこは、踊り場。
照明を切ってあるのか、廊下は酷く薄暗い。


「…………」


人様の──しかもお世話になっている人の家にこう言うのも何だが、不気味だった。
慣れない純和風家屋に、外は最悪の悪天候。
一歩踏み出す毎に鳴る板張りもまた、その不気味さを助長した。


「……ダメダメ……」


お世話になっている家にそんな感情を持ってはいけない。
震えそうになる手を叱咤し、フルフルと頭を振るった。


──リィン……


「?」


と、何処からか……鈴の音。
振るった頭を持ち上げ、辺りを見渡す。
しかし、人気もなければ鈴もない。
気のせいだろうか。
それとも風鈴か何かでも出しっぱなしなのだろうか。
コトリと一つ小首を傾げ、瞬きを数度。
しかし瞬きをしようとも景色は変わらず、鈴の音も聞こえない。
気のせいか……。
不思議に首をもう一度傾げて、当初の目的を果たすべく踊り場から一歩踏み進んだ。
嘉代子の話では突き当たりの右手側が、和浩の部屋だとの事だ。
キシキシと断続的に鳴る板張りを引き連れ、目的地にはものの十歩程度で辿り着いた。
突き当たりは壁になっており、窓はない。
左手は──物置だろうか──錆び付いた鍵付きの扉が聳え、薄暗い。
嘉代子の示した部屋はと言えば、所々に茶色の染みをこしらえた襖が無言で佇む。
締め切られたソレの前に膳を置けば、コトリと小さな音が鳴った。


「あの……和浩……さん……?」


控えめに発した声が、襖へ染み込む。
中からは如何なる気配もしない。


「あの……今夜コチラにお邪魔させていただいているリョーマと言います。お夕食をお持ちしたんですけど……」


……返事は、ない。
人見知りが激しいのだと、嘉代子は言っていた。
やはり見知らぬ人間との会話は好まないのだろうか。


「……お夕食、コチラに置いておきますね。突然お邪魔してしまって……すみませんでした」


無言の襖へ膳の場所と謝罪を告げ、ゆっくりと立ち上がった。
あまり長居しては和浩が夕食を摂り難いだろう。
浴衣の裾を整えてゆっくりと立ち上がれば、シュッと涼やかな衣擦れ。
身を翻して踊り場へと戻り、来た時には膳によって使えなかった手摺りに手を乗せた。
──瞬間。


「きゃぁッ!」


天窓から勢いよく雪崩込んだ青白い閃光、それから一拍遅れて腹を抉る轟音。
ビリビリと肌が震える錯覚すら感じるソレ。
屋敷に迎え入れられた頃より雷が近くなったのだろう。
その空の憤怒と言わんばかりの唸りに身を屈めれば、ジンワリと涙が浮かんだ。
雷は、大の苦手だ。


「ぅー……」


小さく縮こまったまま、恐る恐ると天窓を見上げる。
相も変わらぬ暗雲から叩き付ける雨は、まだ止まない。
けれど先の強烈な光も、今はない。
フルフルと震える手で手摺りを掴み、第二波が来る前にと階段へと足を下ろす。
上ったときよりも急に感じる下りを慎重に、慎重に、けれど心持ち急いで。
キィキィと鳴る板を踏み締めながら、リョーマの姿はゆっくりと階下へと向かった。










その背を見詰める、一対の瞳。
固く閉じられた襖に、僅かに開かれた隙間。
指一本にも満たないその場所から。
音もなく、ただジッと。
暗がりに映える薄紅の衣を。
身動ぐたびに揺れる艶やかな黒髪を。
その姿が階下へ消える、その瞬間まで────。













リョーマが一階に到着した頃には、既に全員の膳は大広間へと整えられていた。
外界と一線を画し、煌々と明るい広間に並べられたソレの前には思い思いの席に着いたキングダムの面々。
ある意味で、それは幸運だったのかもしれない。


「大丈夫だよ。ね、雷全然遠いから」

「あぁ。音の到着まで一拍分のタイムラグがあった。全く問題はない」

「落ち着いてください。我々もいますから」


嘉代子を手伝うはずのリョーマは突然の雷鳴によって、生徒会の面々──正確には手塚を見るや泣き崩れてしまった。
安心したのか、それとも慣れた者──恋人の姿を見て気が緩んだのか。
しゃくり上げながら座り込んでしまい、もはや手伝いどころではない。
たわわな睫毛に縁取られた大きな瞳から涙を零す美少女は酷く儚く、庇護欲をそそる。
肩を震わせて手塚の胸に縋り付くリョーマを囲む彼等の慰め。

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