聞くに耐えない罵詈雑言の嵐の中、跡部と忍足の脚が動いた。
そして、その先にいたのは──。


「お前なんか……」


校舎の壁に押し付けられ、見知らぬ女から首に指先を絡められた──リョーマ。
そして。


「お前なんか死ねばいいのよッ!!!!」


リョーマの首から女が右手を離した、刹那。
制服のポケットから抜き出されたカッターが、リョーマ目掛けて振り上げられた。


「────ッ!」


首の圧迫からのせいか、リョーマの唇が声なき悲鳴を上げた。
瞬間。


「っ!何!?」


女が驚愕の声を上げた。
同時にリョーマの首を捕えていた指が離れ、抑制されていた酸素が一斉に細い喉になだれ込んだ。


「平気か、姫さん」

「……おし……り……さん……」


咳込み、崩れかけたリョーマの身体を寸前で抱き留めたのは、忍足。
乱れた呼吸を繰り返す背をゆっくりと摩り、安心させるように微笑んで細い身体を座らせる。
そして、女の凶刃を止めたのは。


「何してやがんだテメェ」

「あ……跡部……様……」


女の手首を掴み上げた、跡部。
目を瞠る女がその名を呼んだが、それすら不愉快だとばかりに跡部の手が女を突き放した。


「きゃっ!」


短い悲鳴を上げて尻餅を付いた女を一顧だにすらする事なく、跡部はリョーマの元へ。
未だ調わない呼吸に肩を喘がせるリョーマの前に膝を付き、薄氷の瞳が忍足を仰いだ。


「呼吸に問題あらへん。大丈夫や。……痕は……付いてしもうたな」


様子を問う視線には頷きとともに簡潔に。
しかし、痛々しく残った生々しい指の痕は二人の視線を険しめるに十分だった。


「おいテメェ」


呆然と跡部と忍足を眺めていた女が、低い呼び掛けにビクリと肩を震わせた。
ゆっくりと振り返った跡部の目は、苛烈。
視線だけで人を射竦めんばかりの憤怒がセリアンブルーの瞳に迸しっていて。
女の喉がヒュッと音を立てた。


「リョーマに手ェ出すなんざ、いい度胸してんじゃねぇの。アーン?」


絶対零度の視線。
手塚にこそ及ばないまでも、跡部の激した瞳はただの女が向けられて耐えられる代物ではない。
例に漏れず、女はガタガタとその身を震わせ、跡部へと怯えを示す。
片や跡部は、そんなものに哀れみを抱く気など毛頭なく。
忌ま忌ましげに目を細めたかと思えば、女から奪い取ったカッターをゆっくりと振り上げた。


「ヒッ!」


刺される、と息を呑んだ女の、足先。
剥き出しの土へ、跡部の腕が振り下ろされた。
ドスッと鈍い音とともに突き刺さる刃先。
柳眉一つ揺らさぬまま、緩慢に跡部が身を起こした。


「返すぜ。せいぜい握り締めてることだな」


それは、警告。
護身具の一つでもなければ身に危険が及ぶという。
しかし、降り懸かるのはカッター一つで防ぎ切れる災厄ではないのだと。
姫に対する暴挙は、そのままキングダム全員を敵に回す事と同じ。
良くて学園追放。
悪ければ──。
踵を返し、リョーマを支え起こした忍足に跡部が並ぶ。
その背後で、ギリと唇を噛み締める気配がした。


「そうやって……」


次いだ、唸り。
まだ何かあるのかと冷めた視線を振り向けた跡部と忍足の前。
女の顔が憤怒に歪んだ。


「そうやってせいぜい男に媚び売ってればいい!殺してやる!必ずお前なんか殺してやる!」


耳障りな叫びを残し、女の身体が翻る。
そしてその姿は、校舎の影へと消えた。













「胸糞悪い女やのぅ」


跡部と忍足の話を聞き終えた面々の中、声を発したのは仁王だった。
ソファに身を沈め、浮かべるのは嫌悪を示すソレ。
隣に座す柳生もまた同じ。


「随分と大それた事を仕出かす女だな。その蛮勇には脱帽だよ」

「けしからん!」


幸村と真田からの低い唸りにも、およそ反論なく。
その向かいに佇む白石が無意識か否か、左手の包帯を遊んだ。


「柳、仁王。その巫山戯た女を突き止めろ。二時間以内だ」

「承知した」

「了解なり」


奥からの声音は常よりも更に低く、そして更なる重圧を持って。
了解を示す二人が席を立ち、キッチンとは異なる扉へと消えた。


「せやけど、よぉ耐えたなぁ。二人とも」

「アーン?女でさえなけりゃその場で極刑だ」

「せや。まぁ、姫さんの様子が気ィかかったっちゅうんもあんねんけどな」


微笑みすら称えた白石の問いには、忌ま忌ましげな応え。
白石の笑みが常のソレと異なる重圧を発しているのは、決して気のせいなどではない。


「確かに、気にかかりますね。後ほど簡単にお話を伺って参ります」

「頼むわ」


柳生は心理学に於いての天才児と謳われる権威だ。
女の暴行に消沈しているだろうリョーマを任せるにこれ以上適切な人間はいない。
懸念を投げた忍足の視線は、隣接するキッチンのドアへ。
続いて幾つもの視線が後を追った。
学園の姫たるリョーマに対する暴挙は、到底許されるものではない。
気遣わしげな視線の中に内包されるは、憤り。
必ずリョーマへ狼藉を働いた女を突き止め、それなりの報復をくれてやらなければならない。
女の正体は程なく柳と仁王が持ってくるだろう。
憤怒を隠しもしない者たちの中、手塚はただ一人その容貌すら僅かにも変えず。
ただ一点を見詰めたまま、柳眉を険しめるだけ。
折しも、初夏を示す季節違いの虫が、高らかな鳴き声を上げた。













それから程なく。
二時間という制限の中、仁王と柳が戻って来た。
当然その手には、リョーマに暴行を加えた女の情報を携えて。


「本当に仕事が早いね。流石は鷹《ファルコン》」

「当然なり」


感嘆を示す不二に、高慢なまでの返答。
それも当然。
世界に名高い天才ハッカー、鷹《ファルコン》。
それこそが仁王の正体だ。
仁王にかかれば女子生徒一人の情報を調べあげるなど造作もない。
赤子の首を捻るより簡単であろう。


「結果だ。姫を襲ったのは、一年C組の氷室絵理香」

「随分自意識過剰な女らしくてのぉ。学年でも有名らしいぜよ」


言葉による情報を与えながら、柳が各々へとプリントアウトされた情報を配って行く。
そこには顔写真に始まりプロフィール、経歴、親の職業や素行などが記載されている。
僅か二時間弱という短い時間で名も知らない者をここまで調べ上げた二人の能力の高さは、もはや感嘆に値するだろう。


「最近、よく姫に対する不満を零していたらしい」

「氷室は跡部のファンらしくてな。お前さんがリョーマに構うのが気に入らんかったらしい」

「アーン?冗談じゃねぇ。こんなアマ願い下げだ」


柳と仁王が跡部を見やれば、秀麗な眉を顰めて顔を歪める。
誰しも想いを寄せた女にあのような暴挙を働かれれば、その反応も当然と言える。
むしろここで跡部が氷室を容認するような発言をしたなら、キングダムからの除名──否、学園追放の憂き目にあっていただろう。


「まぁ、自己顕示欲の旺盛な方のようですから。自分より優れた人間を疎ましく思ったのでしょうね」

「そこが醜いっちゅうんになんで気付けへんねやろな」


呆れとも取れる溜め息とともに柳生の手から資料が放られる。
白石もまた下らないとばかりに資料の上──氷室の顔写真の上へと肘を付いた。


「で?どうするの?手塚」

「よもやこのような不埒者を放逐しておくつもりではあるまいな」


不二と真田の問いに釣られ、周囲の視線が最奥のデスクへと集中した。
そこには常の如く、キングと名高い手塚。
その腕と足は無造作に組まれ、至極不愉快げに眉を顰めて。
一般生徒がその視線を向けられたならば即座に縮み上がるだろう。
否、もしかしたなら教師ですら竦み上がるかもしれない。
チラリとリョーマの消えたキッチンを一瞥し、手塚の視線が不二を捉えた。


「……奴が下校しているか否かを調べろ」

「了解」


不二を指名したのは、彼の特技に起因するだろう。
不二は“聞き分ける”能力に優れており、十人が同時に会話を繰り広げても瞬時に聞き分けて把握する事が出来る。
この現代社会、携帯電話を持たない人間は少ない。
ともなれば、最もターゲットの行動を把握しやすいのが不二。
GPSを使えば仁王や柳が適当であろうが、会話の傍受とまではいかない。
行動も知れて思考まで覗き見れる。
不二、仁王、柳の三人にかかれば調べられないものなど皆無に等しいと言えた。
折しも問題の氷室は帰宅の際に自宅へと連絡を入れるとの情報もある。
手塚が仁王へと一瞥をくれれば、不二とともに再び隣室へと消えた。

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