悲劇の音がして、押入れを開けると中に居たのは小さな子どもだった。身動ぎした所為で音が鳴ったのだろう。可哀想に。年はたぶん5つぐらい。女の子。涙を湛えた大きな瞳は私を捉えて。私もそれを捉えて。黒い瞳。何処までも深い。どうして子どもの目というのはこんなにも澄んでいるのだろうと思って答えが出る前に子どもは頭から血を流して白目を剥いていた。銃口からは硝煙が。ごろんと頭が横たわって見る見る広がる体液。悲鳴は無かった。何かを想ったような気もするし気のせいだったような気もする。広く薄暗い棺桶は何も伝えない。銃をきつく握り直して部屋の出口へ向かった。古い畳はぎしりと音を立てて侵入者を睥睨する。畳の上には子どもの母親だったのだろう肉塊が風穴を開けてそこにある。ただそこにある。子どもは押入れの中にある。居るではないのだたぶん。その事実が悲しいとは思わないけれど疲弊を膨張させた。指先が痺れる感覚。せめて並べて置くべきだったかと襖を閉めてから思ったけれど「ある」ものを二つ並べたところでなにがどうなるわけでもない。ありもしない感慨が痺れた指先を流れるけれど、予想を裏切り悔悟は持続しなかった。


部屋に戻って、血と汗を流し終えると布団になだれ込む。睡魔を拱(こまね)くけれど、すぐそこまで来ているはずなのになかなか私に触れてはくれない。まどろむという状態にも程遠く、何度か寝返りをうつがかえって睡魔が逃げてしまった。十数回目の寝返りにとうとう飽き飽きして開いた目は恐ろしいほど冴えていた。開放された視線の先には、数時間前にみた棺桶まがいの箱。見つめ続けていると、訳も無く焦燥感が溢れ出てきて。御伽噺の中に潜む呪いを信じているわけではないけれど、導かれるように手を掛けた。左手には手放せなくなった凶器が相変わらず我が物顔で居座る。
押入れを開けると浅い闇が迎えてくれた。しん、と沈む空白。嘆息まじりにくだらない、と言うとその言葉は不完全な闇の隅に落ちた。理性や衝動、感情がやけにアンバランスで倦怠感を煽る。振り切るように頭(こうべ)を振って、中に収まると扉を閉めて膝を抱えた。締め切った所為で濃い闇が充満している。空気はひやりと冷たい。なにかを意図した行動ではないけれど、しかし衝動というよりは義務感に近いものだった。罪悪感などとうに残っていないけれど、だからといって体内で燻る異物が消えるわけでもない。
居心地の悪い重心を動かすたびに音が鳴るが、私は扉が開かないことを知っている。銃を握ったひとごろしも、風穴を開けられた母もない。かといって穏やかに微笑む母が居るわけでもない。だけどそれは特に不幸なことではないと思った。勿論幸福なことでもないけれど。不幸なことも幸福なこともそう簡単には起こらないし、起こすのは神ではなく個人の内情ではないだろうか。
何もない空虚を思わせる黒を見つめて、あの子どものことを思い出す。深く黒い瞳は眼前と周囲全てに広がる闇とは違う。一線を画した、悲観的で肯定的で即物的で絶望的で。握った銃を持ち上げて。銃口をこめかみに当てて。頭の中で銃声を鳴らす。あの時、「おかあさん」と、小さな女の子は小さな口で小さな喉で小さな肺で小さな声で言ったから、私も何か言おうとしたけど何も無いことに気づく。私は扉が開かないことを知っている。私は呼ぶ相手が居ないことに気づいている。其れは不幸でも幸福でもなかった。でも、もし扉を開くのが彼で、呼ぶのが彼の名だったらと願ってしまったらそれこそ本当に陰惨な事実なのだろう。無機質な入れ物に、祈りや願いといった希望を注ぎ込むのは残酷な結果を冀う一歩であって。表裏を見失う。理想を見紛う。それを知っているから望んだりしない。私はもう無力にも世界を信じている小さな子どもではないのだ。あの深さなど忘れてしまった。明澄さを失ってしまった目を閉じて、濃密な闇に身体を預けると逃したはずの睡魔が先ほどとは打って変わって纏わりつく。