昨日、飼っていた猫が死んだ。6歳のときに拾ったから丁度11年。庭で死んでいるのを見つけた。冬だから寒さで死んでしまったのだろうかと考えてみたけど、両親は寿命だといっていた。私もそう思うことにした。見つけたときに、雪が降って居なくて良かった。猫は白くてふわふわだったから、雪が積もったらきっと紛れて見つからなかっただろう。 飼うと決めたとき、猫の名前は迷いに迷った。日本名も素敵だし外国名も可愛い。白くて綺麗だったから、結局銀にした。本当は白とか雪とかが良かったけれど、白は従兄弟の犬の名前だったし、雪は拾った季節が夏だったからやめた。銀なんて、煌びやかな銀食器みたいで格好良くて気に入っている。まぁ、気に入っていた、だけれど。今は。過去形にしかなれないのが悲しい。 ざくりざくりと、薄汚れた雪を踏む。誰も触れていないならともかく、荒らされたあとの純白ほど無残なものはない。と、思いつつ踏みしめる。ローファーから出た部分はとうに雪が解けて靴下に染み込んでしまった。家に帰って暖かな飲み物を飲むところを想像して、冷たさを誤魔化す。お風呂にも入りたいなぁ、と、またざくり、雪を踏む。もうとっくに悲惨な有様だから静かに歩いて汚れないようにするなんて考えは捨てた。どうせ明日からしばらく学校もない。 コートのポケットにほっかいろと一緒に突っ込んだ、手袋をつけた手のひらを握って開いて、悴む指をならす。 近道しようと公園に入ると、遊具にも雪が積もっている。ブランコの横に雪だるま。顔はない。ただ雪玉を二段乗せただけ、といった感じ。雪だるまはあるのに、人は一人も居なかった。小さな公園は年月と共に寂れてしまって、最近人を見かけない。ただこんなふうに気配だけが時々残されている。それがいっそう寂しさを誘った。 奥のほうに、コンクリートの小山みたいな滑り台。その下にぽっかりとトンネルみたいな穴が開いていて、そこで銀を拾った。どうしても友だちが上手く作れなくて、いつも近所のお兄さんについて歩いていたけど、その日はお兄さんが居なくて仕方なく一人で遊んでいた。他の子どもが公園に居なくて安堵した。仲むつまじい誰かの横で孤独だなんて耐えられない。積極的に交ざるだなんてもっと耐えられない。暗い子どもだな、と懐古してみるけど今も対して変わらないのだからなんの成長もない。 私は大きなコミュニティを望まない。ほんの少しあればいい。だからこそ、そのほんの少しがかけると身も世もなく狼狽してしまう。銀が居なくなってしまったことも、認められない。悲しいのに、上手く悲しめない。なんだかひょっこり出てくるんじゃないかと思ってしまう。家に帰ればまた玄関まで迎えに来てくれて、足に擦り寄ってくるんじゃないかと信じている。もし家に帰ってそれが無いと知ったとき、本当に心から悲しくなるのかもしれない。喪失感はある。けれどそれがこれ以上広がるのは耐え難いのでどこか知らぬふりをしている。 またあそこに居るかもしれないと思って、滑り台の穴に近づいた。馬鹿みたいだけど、実際テストが万年赤点の馬鹿だから気にしないことにする。昨日の冷たい銀は抜け殻で、脱皮した銀がここで私を待っているかもしれない。蝶とか蛇だって脱皮するんだから、猫だってしてもいいじゃないか。 「あ」 覗き込こむと、確かに銀色。驚いた声がそのまま出てしまって、少し後悔する。銀色だけど、銀じゃない。銀は猫だけど、目の前に居るのは人間だ。私の声に、銀髪が俯いていた顔を上げた。逃げたほうがいいかもしれない最近は物騒みたいだし、と考えて立ち去ろうとしたけどその前に話しかけられる。 「ちょ、ま、って…なんかっ、あったかいもの、持ってね、?」 寒さで上手く喋れないのか歯をがちがちさせながら銀髪の男の人が言う。その人はコートのような防寒具は着ていなくて代わりに新聞紙を巻いていた。どう好意的に見ても寒そうだった。というか顔色が真っ白で死にそうに見える。唇も紫じゃなくて、白だった。新聞紙は暖かいとテレビでホームレスのおじいさんが言っていたけれど、それだけじゃこの冬は乗り越えられないだろう。男の人はあのおじいさんに比べてずっと若い。20代だろう、たぶん。 「…ほっかいろならあるっス」 「もらえたら、うれしい、かなり…」 ポケットに突っ込んでいた手と一緒にほっかいろを差し出す。 「わり、助か、る」 受け取った小さなそれに縋りつくようなその姿に、銀を思い出した。私の足に顔を擦り付ける可愛い銀。ごろごろ鳴くのが可愛い銀。 「ちょっと待ってて」 踵を返して、近くにある自販機に向かう。あたたかいコーヒーとミルクティーを買って戻ると、コーヒーを差し出す。男の人は驚いた顔で私を見て、寒さで強張った顔をほころばせると受け取った。悴んだ手じゃ開けられないみたいだったから、手袋を取って開けてあげる。ミルクティーのほうもついでに開けて、一口飲んだ。ミルクティーが喉を通っていくのが熱さで感じ取れる。手袋を外して握った手のひらから伝わる缶の温度に、冷えた手のひらがじんじん変な感じがする。 「…生き返った…マジ助かったぁー。」 「お家追い出されたんスか」 「あぁ、まぁ、そんな感じ」 「帰らないの?」 「いや、多分、もう無い、と思う」 「借金とか?」 差し押さえ、と赤い文字で書かれた紙をそこかしこ全てにぺたぺた張られたドラマのワンシーンを思い出しながら尋ねた。家の前で解散宣言されて路頭に迷う中学生、という話も流行った気がする。 「ずばり訊くねー…。そういうのとはまた違ぇけど、とにかく家無しなわけですよお兄さんは。とりあえずフラフラしてたら雪降ってきちまって、しゃーねーからコンビニとかファミレス行ったりしたんだけどとうとう一文無しになっちまってさー。君が居なかったらほんと死んでたね。マジで。」 ぺらぺら喋れるようになった男の人の、死、という単語にびくりと心臓が跳ねた。落ち着こうと、ミルクティーを二口ほど飲んだけど、残念ながらあまり効果はなかった。 「私、昨日、飼ってた猫が死んじゃったんス」 「……それは、ご愁傷様…」 表情と声音からコメントし辛いという雰囲気が伝わってきたけど、コーヒー代の代わりだと勝手に決めて、続ける。 「白くて毛が長くてだからふわふわしてて。ずっと一緒に居るんだってなんとなく思ってたけど、でもそんなことないんスよね。」 「猫と人間じゃ生きる時間が違うからなぁ。ま、その猫もあれじゃん?君みたいな優しい子に飼ってもらえて倖せだったんじゃね?うん。俺だったら倖せだなぁ。うん。」 男の人はいい加減に言いながら握ったコーヒーの缶を頬に当てたりしてなんとか熱を吸い上げようとしている。私も真似してミルクティーの缶を頬に当ててみた。 言葉にしてみればあっけなかった。家に帰っても銀は居ないだろう。だって昨日土の中に埋めてしまった。脱皮なんてしない。あれは確かに銀だった。銀は寒いのが苦手だったからこんなに雪が積もった地面の下で凍えてるんじゃないかと思ったけれど、もう凍えることもできない。可哀想な銀。倖せだったのかなんて分からない。銀が喋れたらよかったのに、そしたら毎日確認したのに。もっと色んなことが出来たのに。銀の死を認めて、後悔の波に流されそうになって踏みとどまる。じんわりと滲んだ涙を擦ると、じっとコチラを見る男の人の目線とかち合う。私もじっと見返した。俺だったら倖せだなぁ。家のない男の言葉を反芻する。 「私、お兄さんのこと飼ってあげてもいいっスよ」 見開かれた赤い瞳はルビィみたいで綺麗だった。銀の瞳は金色だったから少し残念。
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