幼い頃から、何かを観察するのが好きだった。一歩退き、自分とは違う場所で活動する生き物の思考や生態を淡々と見て。人間でも動物でも昆虫でも生き物なら何でも良かった。そうすると、ふと音楽が聞こえてくるのだ。それは生き物によって違う曲だった。勿論、奏でる楽器もそれぞれ違う。音楽好きの母親の強引な勧めで始めたピアノの所為かもしれない。音楽は嫌いじゃなかった。だから勧められるがまま弾くピアノも苦痛ではなかった。むしろどんどんのめりこんでいったように思う。中学に入ってからは白と黒の鍵盤を叩くのを止めて細い弦を鳴らすようになった。ギターは、ピアノよりもしっくりきたように思う。ピアノを止めた自分に母は残念そうな顔をしたが、それでも口うるさく何かを言うわけでもなくしばらくすると古いバンドの曲を万斉にせがむようになった。母の部屋には沢山のレコードやCDがあり、万斉が音楽に不自由することはなかった。万斉が曲を弾き、母が歌う。母の歌声は好きだった。落ち着いて、緩やかに延びる聞き心地の良いアルト。時折母が、あるいは万斉がピアノを弾く。そういう習慣を2年続け、母は死んだ。母の葬式で音は流れなかった。母だけではなく、忙しなく葬式の準備を進める叔母からも自分を気遣うクラスメイトの女たちからもピアノを始めるよりもっとずっと幼い頃に居なくなった父からも聞こえない。何も聞こえないまま、母に花を手向け、焼かれた白い骨を箸で拾った。音のないこの世界は雑音ばかりだった。すすり泣く声が不快で仕様がない。息子と何年ぶりかに会うきっかけがかつて愛した妻の葬式だったことに気まずさを隠し切れない父は、万斉にこれからどうするつもりだと聞いた。まだ中学生の自分に尋ねるあたりがこの男は駄目なのだろうと、万斉は思い、もはやこの男は自分の父親ですらないなとも思った。別に、と、短い万斉の答えに数秒前まで父だった男はますます困惑する。仕事場に使っていたところが空いてるんだ、と男は言い、その後狼狽を隠すように笑顔を貼り付け言い訳を取り繕う。早い話が、もう新しい家庭を築いていて万斉をそこに連れて行くことはできないがほおって置くのも後味が悪いということらしかった。万斉にとっても悪くない申し出だったので、母の遺品のレコードとCDと、日用品とギターを持ってすぐにそのマンションに転がり込んだ。ピアノと楽譜は捨てた。思い出に取り殺されそうだった。どうしようもなくなったとき、レコード類はすぐに捨てられるがピアノは難しいと思い、思い切って捨てることにしたのだ。数年たった今でもその考えが間違っていたとは思わない。
空っぽなマンションで、荷物を整理するついでにCDをかけて、そのとき漸く涙が零れた。喪失感がじわりと這い上がり、万斉の胸の内を満たす。独り、部屋で声も泣く涙を流し続けた次の日、再び生き物から流れる音楽が聞こえるようになった。母の死を受け入れたからか、それとも涙で吹っ切れたのか、明確な理由は分からずじまいだが、戻ってきた音楽に安堵した。自分には音があると、思った。そして、それと同時にますます他者に対して淡白になった。決して踏み込まず、もしくはわざとらしく無神経さを装って、ずけずけと踏み荒らし何の未練もなく立ち去る。そうして他者を観察した。冷淡なわけではない。ただそれ以上に興味を抱けないだけだ。大抵の人間はマネキンか何かのように思えた。もしくはキットに住み着き観察されるために生き続ける蟻か。少なくとも、そういったものをいとおしむということを万斉はしなかった。かといって、それを大っぴらに主張して生きるほど愚鈍でもなく。当たり障りない社交性と曖昧な笑みで誤魔化して生活した。万斉よりも頭の悪い生き物はその社交辞令を喜び、それゆえの、的確に返す言葉の裏の無関心さを時に不服に感じ、近づいたり離れたりを繰り返す。勿論それを追うこともなく、来るものを拒まず淡々と、最低限の好奇心で日々を過ごした。観察する対象は星の数ほどいるのだから退屈などしない。そのたびに聞こえる音楽に耳を傾け、家に帰れば一人ギターを弾く。それで満足だったし、それ以上を望んだりはしなかった。欲求というのはあまりない。孤独だと、気に病んだこともない。自分以外の人間は生き物から音楽など聞こえないのだと知ったときも、特になにも思わなかった。人より少し得をした。それだけだ。

高校に入ると、面白い男に出会った。奏でる音もそうだが、雰囲気そのものが興味深いと思った。痛みさえ覚えるような鋭さでかき鳴らされる音はよく聞けばきちんと秩序に適っていて、しかしそれに逆らうようにぎらぎらとした睥睨。そしてやや自傷的。何年かぶりに自ら進んで近づいた。男も万斉のことを気に入ったのか拒みはしなかった。
「お前の音は聞こえねぇのか?」
母以外の人間に初めて、聞こえる音の話をしたときに男はそう言った。小ばかにして笑うこともなく、疑(うたぐ)るような視線も向けずに。男に言われて、万斉はそういえばと疑問に思う。自分の音だけは聞こえない。そいつはかわいそうに、と男は口の端で笑う。ひょっとしたらこの男は自分の中の何かが聞こえるのかもしれない。口に出しては言わないものの万斉は胸中でそう考えた。

一年過ぎると、男の隣に女が現れた。気ままに女を取り替える男の、恋人という名目の新しいオモチャかと思ったけれどどうやら違うらしい。男は古い知り合いだと言った。一つ年下で、わざわざ男を追いかけてこの学校に入学してきたとこのことだ。健気にも。彼らは学校外のプライベートではたびたび会っていたようだが万斉も男もお互いの私生活には干渉しなかったのでその辺りはよく知らない。知りたいとも特に思わなかった。女は気がついたら共に行動していて、もっぱら話しかけるのは男のほうへばかりだったが、しばらくすると万斉ともぎこちなさが消えて、自然に話すようになった。あぁ見えて人見知りなのだと男が苦笑しながら言うのを万斉は黙って聞いていた。




「ねぇ」
男が何らかの用件で担任教師に捕まり、開放されるのを待っている放課後の空き教室。窓際の棚に座ってつまらなそうに足をぶらぶらと動かしていた女が唐突に声を上げる。教室は二人だけなので名前は無いが自分に話しかけたのだろうと、万斉はギターの弦を弄るのを止め顔を上げて向かい合うように座る女を見る。
「音楽詳しいんスよね」
「まぁ、それなりに」
「私、ずっと前から気になってる曲があって、知ってたら弾いて欲しいんスけど…」
居心地が悪そうに頼む女の流れる金糸を見て、自分とは違う色素の淡さを不思議に思う。この学校には珍しい髪色の生徒がやたらと居るが、それでも半数以上が万斉や男のような標準的な黒髪黒目なので、彼女の姿は目立った。無言のままの万斉に、青い瞳が困惑するように揺れた。誰かのために弾くという行為をしばらくしていなかったが、暇つぶしにはいいかもしれないとらしくもなく思い、訊ねる。
「なんて曲?」
「曲名覚えてないんス。だから分かるならついでに曲名も教えて欲しいかも」
「じゃ、歌ってみてくれ。分かれば、弾く。」

あんまり上手くないっスよ、と言ってから女が歌う。控えめな歌声の、その特徴的なメロディーに心臓が軋んだ。塞いだはずの傷口から血が流れて、一筋伝う。その曲は母が一番好み、よく歌ったものだった。



女があの男に好意を抱いているのは見て取れた。女からはいつも甘い音がした。春のような穏やかな快活さで、時折切なく、流れる。弾むようなメロディーで笑う。男がどんな態度でもひとり勝手に楽しそうで、くるくる変わる表情と音楽は万斉を飽きさせない。女が好きだと言った曲はあの後も気が向けば弾いてやった。一度零れた血を、出し切りたかったのもある。女は万斉の母のようには歌わなかったが、熱心に耳を傾けた。男が居て自分が居て女が居て当然、という日々に変わった頃、しかし突然むかむかとささくれ立ったものが万斉の胸の内に現れた。それは女に対して抱いたものだった。意外に思う。万斉は、自分は彼女をそれなりに受け入れているものだと思っていた。明確な理由が分からないまま、ただぼんやりとした重い塊を女が居るときに呑みこむ。塊は棘を生やして万斉の内部をずたずたに傷つけた。女の、その愚鈍と取れるほどの前向きさか、それゆえの無自覚な無神経さか。何が原因か探ってみたが、いまいちどれもピンとこない。長年一定以上の強い感情を他者に向けることのなかった万斉にとって、この憎しみは青天の霹靂といっていい。だからこそよけい劣悪に思えた。
昼食を取る休み時間も、帰り道も、彼女の傍にいると陰鬱な気分が襲い掛かる。万斉は偽るのは得意だったので、苛立つ心を押し殺し何食わぬ顔で笑い殺意を相槌を打ちに変え、そうやって誤魔化した。それに、不思議と二人の傍を離れる気にはなれなかった。どうしたものかと思いつつどうにかなるならすぐにでもなんとかしていると毒づき、次第に焦燥が滲んだ。女はともかく、男のほうはいずれ万斉の虚構に気づくだろう。あるいは、もうすでに気づいているか。
そんな時、ふと浮かんだ思案はこの上なく、万斉の興味を惹いた。それは男を慕い愛するあの女を無残に手折り踏みつけたら、彼女はどんなふうに壊れるのかと、そういった内容だった。もはや万斉の中の押さえこんだ負の感情は薄暗い暴力となってはち切れそうだった。そういう観察もいいかもしれない。そのとき彼女から聞こえる音楽がどんなものかというのも感興を誘う。つまるところ、まったくの妙案だった。そうして、膨れ上がった感情の吐き捨て場所を決めた。




チャンスはすぐに訪れて。先輩を捜している、と来島が晋助の居場所を訊ねにきたので適当なことをいって空き教室に連れ込んだ。空っぽの部屋と締まる鍵の音に来島は訝しげに万斉を見る。それに、にこりと笑って返すと肩を押した。あっけなく尻餅をついた来島の腹部を思いきり蹴り飛ばす。来島の鞄が床に転がり、口が開いていたのか中のペンケースやら携帯が転がった。蹴られた来島も床に伏して腹部を抱えて咳き込む。
「…な、っんで…?」
怒りや苛立ちではなく言葉そのものの当惑した表情で万斉を見上げ、咳き込みながら苦しげに呻く来島を再度蹴る。飽きた頃に蹴るのを止めて、痛みを堪えるように身体を丸める来島を見下ろすと、答えた。
「気になった」
その言葉に、来島が万斉を畏怖と疑念の目を向ける。薄く笑って万斉は続けた。
「また子ちゃん、晋助のこと好きでござろう?それなのに、他の男に酷いことされたらどうなるのかと思って。ただの興味でござるよ。」
来島は初め万斉が何を言っているのか理解できなかったが、言葉を反芻するうちに意図を察してぞっとした。まだ世界が自分のためにあるものだと思っている小さな子どもが疑問を確かめるために実行するような、したいからする、という純粋な残酷さに来島は戸惑い同時に恐ろしく思う。他者の痛みを考えない、歯止めのない狂気はどこまでいくのだろう。冗談だと思いたいが、冗談めかすような笑みが逆に本気なのだと来島に告げる。
「や、くるな…!」
痛む身体を引きずって逃げようとする来島を見て万斉は、その身の丈にあった小さな脳みそで動く浅はかな小動物のようだと思う。一体何処に逃げようというのか。出入り口は万斉の後ろにしかなく、三階なので窓からも逃げられない。飛び降りるというのなら別の話だが。後ずさるにしたって、教室の隅に自らを追いやっているだけだ。ただ、そういう愚鈍さや悪あがきは不快ではなかった。
歩くときに爪先に当たった鞄をそのまま蹴る。ますます中身が零れたが、気にせず来島に近づき、
「汚されたと自己嫌悪して、晋助の隣に居られなくなる?」
言うと同時に金糸目掛けて脚を横薙ぎに振った。また華奢な肢体が床に倒れる。左手首に足を落して踏み躙った。悲鳴が上がる。理不尽な暴力に来島の目から涙が溢れ、痛切な懇願が色をなくした唇から零れた。
「や、だ…やめてっ、…やめ、って…!」
「それとも何もなかったことにしていつも通り笑うか?」
足を退かすと膝を折り、来島の肩を掴んで仰向けにさせる。がつん、がつん、と右頬を殴った。口の端から血が垂れるのを見て、女の子相手にやりすぎたかと少し反省する。制服に手を掛けると、抵抗するように万斉の腕を引き剥がそうとするので仕方なくもう一度殴った。赤いスカーフを解くと、足掻く細い手首をひとまとめにして縛る。先ほど踏んだところは赤く腫れ上がっていた。涙は絶えず零れて頬を濡らす。万斉が来島の足を割り開き、ショーツを引き剥がしたが、今度は抵抗がなかった。殴ったのが効いたのかもしれない。
「抵抗しないのか?まぁ、されるとまた殴ることになるから、いささか面倒だが。でもしないと和姦みたいでござるよ?」
クスクスと笑いながらしかし暗黒色の瞳は冷たく来島の様子を観察する。蒼褪めた顔。ふるふると震えて溶けてしまうのではないかと訝るほどしとどに濡れるソーダライト。翼のように広がる金色。なのに肢体は翼をもがれたみたいに床に落ちている。音は、まだ聞かない。一番美味しいものは最後に取っておく。
「やめて…おかしい、こんなの…」
来島は顔を悲痛に歪ませて嗚咽を漏らす。万斉は服を寛げて、猛った牡を恥裂に当てた。
「や、やだぁ!やめて、おねがい……」
来島の嗚咽が一層酷くなり、いやだいやだと喚く。淡い色をしたそこは渇いていて、上手く入るか疑問だがいちいち慣らすのも面倒だった。
「晋助には言わないから、大丈夫でござるよ。」
だから安心して煩悶していい、と慰めにならない言葉を吐いて、来島の口を手のひらで覆うと一気に押し込んだ。
「ん゛ぅううーーーーー!!」
くぐもった悲鳴。痛みに来島の身体が反る。押し開くにしても膣内が狭すぎる。乱暴な扱いに来島が身構え、身体を強張らせている所為で輪をかけて中の万斉のモノをギチギチと締め付ける。
「キツっ…」
強引に押し込み、鈴口がこつんと子宮口に当たった感触に口角を歪める。視線を下げれば膣から零れる、赤。膣襞が傷ついたのかと思ったが、痛みと傷心に涙を零す来島を見ていると他の可能性に思い当たってますます面白い。お誂え向きではないか。
「はじめて?」
万斉が訊ねると来島の肩が大仰に震え、瞳は絶望に翳る。万斉は口を塞いだ手を離し、代わりに涙を拭ってやる。
「どんな気分?」
訊ねるまでもなく、分かる。来島からは聴くだけで観客が滅入りそうな暗い曲が聞こえる。暗い日曜日という自殺を煽る曲が在ったが、それに取って代われるのではないかと思うぐらいの名曲だった。普段の明るい華やかな曲調が真逆のまさに最悪なものへと変化したことに万斉は素直に喜ぶ。自分が干渉することによってこんなにも変貌するというのが愉快だった。これで彼女があの男の前で笑うこともともすれば隣に立つことすらできなくなるのだと思うと、胸の中に巣食う不快感がどろり溶け出す。しかしそれと同時に、もうあの曲が聴けないのかと思うと酷く残念だった。想像してはいたもののそれ以上の思いもよらない悔悟と喪失感の来訪に少し戸惑う。不快感と対比するように湧き上がる空虚な塊を振り切るように来島の身体を乱暴に貪った。暗黒が流れ続ける。
来島は身体を恐怖と痛みに強張らせてこの悪夢の実験が終わるのを待つ。青い瞳からは涙と一緒に絶望が零れた。初めての、その上自分の意思を踏み躙る無理矢理な性行為に快楽が見出せるはずもなく苦痛に呻く。痛い痛いと喚いたところで万斉は止めないどころか喜ぶ一方なのではないかと悲しく思い、ただただ中の異物への嫌悪感に身体を震わした。
身体の防衛本能か、狭い隘路がぬめりを帯び、律動が滑らかになる。蠢き絡む襞は万斉の熱を増幅させるには十分で。抽送を繰り返し満足するまで味わうと、欲望の残滓を吐き出した。膣に溢れる液体に来島の瞳が見開かれ唇が震えたが、それ以上は何の反応もなかった。性器を抜くと、どろりと白濁色の液体が膣から零れる。何か詰って反応を見ても良かったが、万斉もその頃には初めのような高揚感は消えて、むしろ砂を噛むような感慨ばかりだったのでわざわざ何かを言うのも億劫だった。不快感に取って代わった胸中の空白を忌々しく思う。むしろ初めより酷い有様だ。こんなはずじゃなかった。案に相違した現状が重苦しい。泣きじゃくる来島を一瞥して、服を整えた。手首を拘束する赤いスカーフを解いてやると、来島がゆるゆると重い動きで身体を起こした。左手首は紫色へ変色している。たしか来島は左利きだったから今後の生活に困るだろうと漠然と思って、笑ってしまう。それどころじゃあるまいに、と安っぽい同情を携えて悄然とした来島のその虚ろな瞳を見ていた。曲調はさっきのようなあからさまに不安定なものではなく、今にも消え入りそうな悲しい暗然としたものに変わっていた。そのぽかりと空いた底のない悲傷の穴に引き摺り混まれそうだと思った。万斉自身の沈んだ気持ちも来島から流れる曲に当てられたのかもしれないと、踵を返して立ち去ろうとする。何も言わずに。いや、かける言葉が見つからなかった。罪悪感などではなく、もっと別の、深い部分を容赦なく抉るようなものだった。喉さえ塞ぐその濁ったものの正体が分からない。結局、なにをしたってわからないことだらけではないかと自嘲した。

「わたし…晋助先輩が好きなんじゃ、ない」

来島が弱弱しい声で、言う。なんの戯言だと万斉は構わず脚を進めた。途中で、がり、と何かを踏んだ感触。床に落ちた鞄からあらゆるもの零れていて、その一つだろうと足をどけると見覚えのある赤いギターピックだった。来島が歌を尋ねたときに万斉が使っていたピック。透ける赤が綺麗だというので、それならと、なんとなくあげたものだった。母との思い出の感傷に流されたが故の行為だった、が、しかし、一年以上も昔のものがどうしてここにあるのだろうか。一瞬、脳裏を過ぎった考えに、心臓が鳴った。押し上げるように、深く鼓動して。背筋が冷える。口の中が乾く。来島の言葉。空虚感の正体に今更思い当たって。狼狽する。あの男の傍に寄り添い微笑む彼女に苛立ち、しかし、それは、彼女そのものへの憎悪ではなかった。彼女から聞こえる甘い曲が好きだった。笑顔が弾むあの曲が好きだった。心地よいそれらはするりと万斉の中に入り込んで、自分でも気づかない欠落を浮き彫りにさせた。壊そうと思った。その結果が見たかったからか。いや、違う。きっと、違った。だって、それは。考えれば考えるほど溢れ出るものに、吐き気さえする。ギターピックを拾い上げることも、立ち去ることも出来ずにただ立ち尽くして。ふと、音楽が、聞こえた。来島からではない。先ほどの悲痛な曲ではない。曲なんていえたものじゃない、もっと酷いカコフォニー。頭痛がするほど、眩暈がするほど、醜く歪んだその音の主は、まぎれもなく自分自身で。