高杉が呼んでいると言われ、部屋へ向かうと部屋の主はつまらなそうに蝉時雨と屈強な陽射しの降る外を眺めていた。
「あの、晋助様」
「入れ」
緊張を孕ませまた子が声をかけると、暑さの所為かそれとも別の何かか普段よりも一層気だるげな声音が返される。片手で飲み物を乗せた盆を持ち、開いたもう片方の手で扉を閉めた後、開け放した縁側の柱にもたれる高杉に近づいた。部屋の中を通る風は外の蒸すような暑さと比べるとずっと快適だった。少しばかり覗く青い空にはもこもこと膨らんだ入道雲が見える。夕立がくるのかもしれない。
また子が腰を下ろすと、持つ盆の上でコップの中の氷が涼しげな音を立てた。高杉の視線がそれを捉えたのに気づいてまた子が微かに笑う。
「暑いから、なにか飲み物があったほうがいいかと思って…ついでに…」
言いながら盆ごと冷えた麦茶を傍におくと高杉が口を開く。
「お前の分は?」
「え」
用が済めばすぐに帰るつもりだったまた子はきょとんと、空と同じ色をした瞳で高杉を見返す。
「私のはないっス。あの、それで何か大切な御用があるとか…」
「別にねぇよ」
高杉は言い切ると麦茶に口を付けた。その上下する喉仏を見つつ、真意がつかめず困ったようにまた子が眉を顰めると高杉は半眼で続ける。
「用がなきゃ呼んじゃいけねぇのか」
「いえ、そんなことないっス!光栄っス!」
わたわたと手を振り否定すると、高杉に半分ほど残った麦茶を押し付けられた。反射的に受け取ると、高杉はごろりと横になり、頭を、律儀に正座したまた子の膝の上に乗せた。
「し、晋助様!?」
「それ、飲んでいいぞ。飲みかけだけど。」
急に乗せられた温度に心臓が音が聞こえるほど脈打ち、血液が脳に集まっていく。夏の暑さとは違う汗が出てきそうで、落ち着くためにも麦茶を飲もうとするが高杉の飲みかけだということに気づき迷った末にやはり勇気が出ずに飲めないまま握りしめる。とりあえず水滴が高杉に落ちないように薄藍の夏らしい色をしたコップを服の袖で拭った。 上がり続ける心拍数に爆発しそうで。言いたいことは沢山あったけれど、混乱のほうが上回って結局何もいえない。言えたとしても変な呻き声になってしまいそうで口を結んだ。高杉は気にする様子もなく、瞳を閉じて昼寝の体勢に入っている。このまま黙っていたほうがいいだろうかとか途中で脚が痺れてどうしようもなくなったらどうしようとかそもそもこの状況は一体なんなのだろうかとか色々考えて。しかし途中で今にも弾けそうな胸のもどかしさに、上手く思考が続かずにぶつりと途絶えてしまう。
「そこらに団扇あんだろ」
「え、あ、はい」
やっと喋ったかと思うと高杉はそれっきり何も言わない。きょろきょろと辺りを見回すとギリギリ手の届くところにあったので、それを取るための手を空けようと麦茶を置こうとする。が、しばし迷い若干挙動不審になりつつ一口だけ飲むとそれを盆の上に戻して、団扇を取った。人間の一生の心拍数は決まっているらしいから今自分は限られた数をものすごい勢いで消費しているのではないかとそんな馬鹿なことを考えてみたり。
とりあえず。仰げということだろうかと考え、軽く仰ぐ。猫っ毛な黒髪がふわり、揺れた。気まぐれでよく掴めないところなんて本当に猫みたいだと思う。今なんて特に。興味がない様子で突然寄ってくるのだから、よく分からない。また子はこっそり嘆息するが、嬉しくないわけではなかった。ただ緊張しすぎてどうにかなりそうだ。言葉なんてまさかでない。瞳を閉じた高杉の横顔を見つめて、息苦しくなる。膝の上から伝わる温度に焦がされる。夏の日差し。蝉の声。時折通る風。その中に交じった季節の気配。水滴のついた麦茶。それらが全て何かしらの意図で拵えられたような気がした。なにかがぶれれば弾け飛んでしまいそうなのに、とても緩やかで。空気の波は静かだった。その中で競りあがる、胸中を満たしていくものの正体を知っている。好きだと、思う。けれど、怯えてしまうのだ。倖せなのに切なくなるのは彼の居ない世界を一瞬でも考えてしまうからだろうか。微かな隙を突くように、満たすものを掻い潜って痛みを埋めていくから残酷なものを見てしまう。
また子は団扇で扇ぐのを止め、胸に引っかかる不安に似たもどかしさを吐き出すように静かに息を吐(つ)いた。気まぐれだから、飽きたらまたすぐに別のところへ行ってしまうのだろう。残念だけれど、かといって手元に置いておくというのも無理な話だ。せめて何か確固な繋がりをもてればいいのにと思ったけれど首輪が無いのが高杉なのだろうと思いなおす。いやむしろ首輪は自分でリードを持つのが高杉か。なんにしろ繋ぎ止めるという希望は難しい。不毛な堂々巡りばかりで先に進めない。進みたいと、願うのだろうか。予防線を引くように、猫の気まぐれ、と繰り返し、しかし反芻すればすればするほど暗い境界にはまっていくものだから、堪えきれずにあっけなく線を踏み越えて胸のうちが漏れる。
「…私馬鹿だから、こういうことされると勘違いしてしまうっス」
こんなこと言って二度と呼ばれなくなったらどうしようかと、少し後悔した。高杉のくつくつ笑う声がして更に後悔が深くなる。羞恥も相成って顔が火照るのがまた子自身分かった。けれど延々と期待を抱きながら傍に居るなんて、酷い。あぁもう絶対何もいわないようにしよう黙っていようと決心したところで、高杉が身体の向きを変え、また子を見上げる形になる。視線が交わり、きゅう、と胸が締め付けられた。高杉の腕が伸ばされ、頬に、触れる。暑さの所為か、意外に熱い温度にどきりとした。指先が滑り、唇を一瞬なぞる。高杉の口元が弧を描く。それだけで全身が沸騰しそうだというのに、高杉の黒曜石に似た深い瞳が近づいたかと思うと、唇に、感触。指とは違うそれに、目を瞠(みは)る。
「好きなだけすりゃぁいいじゃねェか」
心臓の音に掻き消されそうだった思考が一瞬、完全に止まって。動き出したときにはまた子の顔が羞恥とは別のもので一気に赤くなる。それは一体どういう意味だと、訊ねようにも無言を貫くと決意したばかりで。触れた唇はなにか細工をされたように動かない。高杉はとうにもとの体勢に戻っているので横顔では表情もよく分からない。ただただ、戸惑いも何もかも止められずに溢れかえってしまいそうだった。溢れるそれは倖せの隙間も塞いでしまうから言い訳も線引きさえも飲み込まれていく。次に開く言葉もきっと止められない。想いが続いて、続いて。その先にある愛おしさを、否定できるわけもない。そこから繋げるものがあるならなおさら。