好きなことを我慢するのは難しい。授業に出て、なんの役にも立ちそうにない問題を解くための公式を教わるよりも、先輩達と一緒に居るほうが楽しい。宇宙人並に不可解な同級生より、先輩達と一緒に居るほうがずっとずっと楽しい。どうしてあと一年早く生まれなかったんだろう。あと一年、いや、あと十ヶ月。机に突っ伏して、まどろみながら思う。私のほかにもちらほら夢の世界に向かう生徒が居た気がするけれど、数学教師は何も言わない。優しいのか、見放しているのか、どうでもいいのか。代わりにぺらぺらと何か吐き出している。現に心もとない頭では呪文にしか聞こえない。きっと世界を救う魔法の呪文とかなんだろうけど、なんにしたって私には関係ない。あぁあと一年あと十ヶ月と教師に負けない魔法を脳に吐いては捨てる。いい加減、曖昧な夢と虚ろな現実の往復に飽きてきた頃チャイムが鳴った。委員長の号令にふらふらと立ち上がる。視界に入った黒板には写しきれてない大量の文字が並んでいてうんざりした。礼、を合図に頭を下げながらノートを閉じた。


 退屈な授業が終わって昼休みになるとすぐに鞄を持って軽音部の部室に向かう。扉を開くと万斉先輩一人。自由自在に操ることが出来る機械や楽器に囲まれた万斉先輩はまるでこの小さな国の王様みたいだ。
「晋助先輩は?」
 万斉先輩は苦笑い。私はそれで全部分かったから、どうも、とだけいって踵を返す。踏み出す前に、また子ちゃん、と低く通る声で呼ばれた。先輩の声は綺麗だ。
「あの二人はバカだから気づいてないけど」
 二人、というのが誰を指してるかわかって心臓が大きく鳴った。先輩の困った顔に嫌なものを感じる。いやみんな気づいてないか、と言い直して少し口元を上げて、私を見た。
「なんだか痛々しい」
 その言葉に感情が一気にはち切れて、何も言わずに廊下に出た。閉じた扉が重い。心臓が爆発しそうなぐらい鼓動して、それが脳まで届いて心臓の音と合わさって、収縮しているみたいだ。頭がずきずきと痛む。眩暈に似て、視界に黒点がぽつりぽつりと浮きあがった。足がすくわれるようなさっきの言葉を反芻して歩き出す。歩くたびに一つずつ殺していった。行く場所も目的もないのに、ただただ歩いた。



HRが終わって、律儀なさようならの慣習のあとすぐに鞄をつかんで急いで教室から出る。軽音部室か屋上か保健室か3zか、とにかく早く先輩を見つけないといけないから出来るだけ急ぐ。いや、焦る。
「来島さん」
逸る気持ちを掴むように後ろから声。廊下の雑踏を裂くようなやや力の入った声音に驚いて振り向くと斜め前の席の女子が怒っているのか困っているのか微妙な表情で立っていた。
「掃除当番」
「あ…」
ごめん、と返して教室に戻る。中に入ったとたんに向けられる気まずそうな視線に私も気まずくなる。別にわざとじゃない忘れてただけ、そう笑って言えたらいいんだけど誰も答えてくれそうにないから黙ってほうきを掴んだ。居心地の悪さと焦れる心地にイライラする。

お昼ごはんも放課後も出来るだけ早く先輩のところに行く。じゃないと先輩は別のところへ行ってしまうから。なんの気まぐれか、先輩は最近自分のクラスの人と一緒に居るようになった。お昼休みはそのまま教室でご飯を食べることが多くなった。放課後も、やっぱりそのまま3zの人と帰る。部活なんて3ヶ月に一回行けばいいほうだったのに、今では2週間に一回は行くみたいだ。先輩がそういう風に私の知らない誰かと一緒に過ごせば過ごすほど、私と先輩の距離が離れていく。先輩がとられてしまう、なんて子どもみたいな考えだけど、自然と思考がそっちに傾いた。一度3zの人たちと先輩と私と、一緒に帰ったけれどなんだか酷い違和感を感じてしまってそれ以来一緒に帰ってない。万斉先輩も誘われていたけれど曖昧に笑って断っていて、帰ってる最中その気持ちがよく分かった。クラスの中に居るときと似てる。息が上手くできない。きっと万斉先輩は、自分の居場所をちゃんと知っているんだろう。例えばあの機械と楽器の世界とか。じゃぁ、私はどうだろうと考えたとき、先輩の隣しか思い浮かばなかった。でもそんなのすごく身勝手だ。

 掃除が終わりかけた頃、誰がゴミ捨てに行くかでぐだぐだ揉めるのが面倒臭くて、悪気がないとはいえサボりかけた負い目もあって自分から行くことにした。どうせ、すぐに帰れなければ意味がないからこれ以上帰る時間が十数分遅れたところで関係ない。私が行くと言ったら、数人の女子が安堵した風だったので、陰鬱になった。この小さな社会の中の小さな教室の小さなグループにまで色んなルールが張り巡らされていて、とてもついていけない。だけどそれに従うことを放棄したらまんまとクラスから浮き上がった。従っても不快、従わなくても違和感。つまらない世界。先輩が居なかったらこんな場所無意味だ。だから今の私は無意味の塊だ。

 特に重いわけではないけれどそれ相応に嵩張るゴミ袋に嘆息しつつ、横目で校庭脇の通路を見やると一人二人で帰る生徒の中に目立つ集団を見つけて目が引寄せられる。その中の一人に、瞠目。出掛かる声を押さえ込んでそのまま見つめる。
 後姿ですぐに分かった。先輩の後姿も歩き方も間違えたりしない。6人で歩いていて、その端に先輩がいる。真ん中の男子とその横の男子が内容までは聞こえないけれど何かを喚いて、隣の女子が笑って、先輩も彼女を見てふわりと、わらう。肌が粟立った。私が知ってるような、皮肉げだったり口の端だけ上げるようなそういう笑い方じゃない。彼女は先輩の方を向いて、何か喋って、先輩は、それじゃぁ、まるで、

 それ以上見ているのが怖くて、逃げ出した。頭が真っ白で思考が止まる。呼吸をするのに全神経を使って、喉元に競りあがるものを宥めて、ゴミ袋を握った手を一層強く握り締めた。先輩と一緒に居るのは3zの人たちだろう。何人か見たことのある姿があった。前に一緒に帰った面子かもしれない。先輩の隣には、前と同じようにやっぱりあの人が居た。思い出すと、胃の辺りがぐるぐるして気持ちが悪い。段々と冷静になるにつれ思考が洪水みたいに溢れる。考えるな。止まれ。歩け。殺せ。潰せ。考えるな考えるな。嫌だ。止められない。思い通りにならない。濁った感情が氾濫する。
 別に初めから約束なんてしてない。私から頼んでもいない。勝手についていって勝手に一緒に居るだけ。でもそれでよかった。約束なんていらないと思った。先輩だってそういうのは煩わしいと思うだろう。それにそんなものなくたってずっとずっと続いていくと思った。でもそんなことなかった。先輩が何で3zの人たちと一緒に居るのかだって、本当は分かってた。気まぐれなんかじゃない。そんな簡単なものじゃない。

 先輩があの人のことが好きなんだということはすぐに分かった。誰よりも早く気づいた自信があった。だって、ずっと見てきたんだから、気づかないわけない。だからって何も嬉しくないし救いにもならない。前に一緒に帰ったとき、居心地が悪かったのはあの人がいた所為もあるのだと思う。あんな風に先輩が誰かに笑いかけるなんて、そんなの。


 教室に帰ると誰も居なくて、私の鞄だけが残っていて。それを見てると息が詰まった。掴んで教室を出る。お昼休みと同じように、頭の中にある異物や良しとしない塊を殺しながら歩く。廊下に音が響く。並んだクラスから笑い声。万斉先輩たちは学校に残ってるかもしれないと思ったけど昼休みのことを思うととても顔を合わせられない。万斉先輩はいつも我関せずといった風でいるから、あんなこと言うとは思わなかった。言われた内容も相当だけど、そういう類の衝撃のほうが勝った。看過出来ないほどの場所に、今の私は居るのだろう。それが怖い。でも身動きが取れない。私の内側から生れて飽きもせずに延びゆく荊棘に足どころから身体中を捕らえられて、心ごと締め付けられる。

 私が求めているのと同じものを先輩が大切にしていくなんてありえないと知っていたけどでもどこかで信じていたのだと思う。それは横柄な誤解だった。思い上がりも勘違いも甚だしい。こんな風に相手を見ているつもりで結局自分のことしか押し付けないから変わってしまったのだろうか。それともそんなものさえなんの意味もなくただただ気にかけてすらもらえてなかったのか。不安が募ってどうしようもなくなって。先輩が居ないと、苦しい。先輩はわたしの中の膨らんだ不安や悲しみを少しずつ抜いていってくれる。このままだと破裂してしまう。苦しい。なのに。どうして。
 どうしてあの人なの、なんていったところでそんなの先輩にしか分からない。それを知りたいと切望する反面、湧き上がる身悶えするような拒絶。ただ事実として、私は求められなかった。

(だから、ずっと、一緒なんて、ない)

学校の外。青紫と橙の層になった空。それにかかる黄金色の雲が眩しい。校庭から聞こえる笑い声。鴉の叫喚。アスファルトに伸びる影はひとつ。頭の中では彼と彼女の影がふたつ。重なる。踏み潰す。ぐしゃり。現実。アスファルトに伸びる影はひとつ。
 ひとりだと、思った。なにもかもが遠い。学校も空も影も他人も言葉も自分も全て。意味もなく価値もない。踏み出すにもどこに向かえばいいのか分からない。帰りたいと無性に思ったけれど、帰る場所なんてない。世界がどろどろと溶けていく。ひずんだ世界で私は置き去りにされる。彼が欲しかった。彼と繋がっていたかった。彼に必要とされたかった。彼だけでいいのに。他は何も要らないのに。
 あと一年。と未練がましく思ったけど、でもきっとそんなの関係ない。例えずっと傍に居たってかなわないものはある。
 太陽と一緒に世界も沈んでしまえばいい。明日も沈んでしまえばいい。私も沈んで、私に見えない世界で二人の想いが通じ合って倖せになってその倖せに押し出されるように私のことなんか記憶から抜け落ちて、そうして誰も彼もの世界から消えうせてしまえたらいいのに。
 好きなことを我慢するのは難しい、好きだという気持ちを我慢するのも難しい。だったら初めからなにもかもがなかったことになってしまえばいい。