しんとした空白の中、暗く、意識だけが遊離する。ふわふわとしたまどろみは心地よい。浮かぶ、沈む。暗い、暗い。だが、急に弾かれたように覚醒した。狭い押入れの中で身体を起こすと、ぼんやりとしたまま、感覚を頼りに手を伸ばす。つっかえた場所の扉を引き、ベッド代わりの押入れの二段目から降りた。素足で踏む床は冷たい。ここまでくると徐々に目も醒めていって。軽くふらつきながら、彼の寝床に向かう。期待と不安と。幼い頃に物をねだるときの感覚と似てる。与えられるかられないかの瀬戸際で揺れている高揚。だが、あの頃ほどに楽しくはなかった。
 扉の前で深呼吸。極力音を立てないよう、神経を尖らせて扉を引いた。といっても、もし彼が中に居るなら絶対に気づくのだろう。その瞬間に立ち会ったことはないけれど。なぜなら、こうしてふと目が覚めた夜に彼が居た試しはない。何かの偶然か、驚異的な勘なのか。いつも居ないのか。なんにせよ、居て欲しいと願う。
 開けた視界の薄暗がりに、ぺたんこの布団。主の居ないそれに、顔を顰める。誰が見ているわけでもないので思いっきり。その後、自然と嘆息が零れた。予想通りの結果に、落胆と共に扉を閉める。

 コンロの前に立ち、湯を沸かす。次にマグカップ二つを取って片方にだけ粉コーヒーを三杯。砂糖を二杯。それが終わると、椅子を引き寄せて膝を立てて座った。膝を立てて顔を埋める。空白が圧し掛かる。それはやけに虚無的で。時計の音が、重い。ぐるぐると、空っぽな世界を巡る。私を包む殻を一つ一つ削いでいく。こういうとき、故郷を思い出す。なんだか遠い日のように思う。そんなことはないのに。今は毎日キラキラしていて、故郷の鈍い空や陰惨な気配なんて本当は何処にもなかったんじゃないかと思ったりもする。私は故郷が嫌いではない。かけがえのないものだと、分かっている。でも、素直に好きとはいえない。否定することで何かを強く残そうと足掻いてるのかもしれない。そして、そうしているうちはあの場所に私が残っているのだとなんの根拠もなく信じている。
 やかんがけたたましく鳴く直前で顔を上げて、火を消した。そのまま煮え立った湯を中身の入ったマグカップに注ぐ。一層濃くなるコーヒーの香りは感傷を少しだけ潤して、その反面キラキラの中に潜む虫食いのような穴を見せ付ける。毎夜こうして確かめているわけではない。ただ不意に目が覚めた真夜中に、彼が居ないのは、寂しい。その寂しささえ段々と蝕まれて、悲痛な執着だけが残りつつある。
 ソファのある部屋に移動して、コーヒーを一口飲むと、玄関の扉の開く音がした。この瞬間いつも身構えてしまう。彼を試すようなことをしている罪悪感か、突き放されることへの不安か。
 私を見ても驚く様子もなく、彼は眉を顰める。いつもと同じく。

「おかえりなさい」
「…待ってんのやめろっつったろ」
「コーヒー、あるっスよ」

 言葉に構わず続けると、彼は一層不機嫌そうに眉を顰めて舌打ちすると向かいのソファに座る。私は逆に立ち上がる。キッチンに向かうと用意しておいたマグカップにコーヒーの粉だけ入れて、まだ冷めていない湯を注いだ。すぅ、っと、また、深呼吸。湯気のたったコーヒーを彼の前に置いて、向かいに座る。彼が口をつけて、それを眺めながら私もコーヒーを飲んだ。
 彼が何処に行っているかは知らない。彼も、知られたくないのだと思う。だから聞かない。いや、聞けない。彼は決して他人に触れさせない部分がある。それは、真夜中に付けて帰ってくる血や硝煙の仕事のにおいであったり、時折深く落ちていく黒い瞳であったり。そういったものは、分け合えない。分け合うつもりも彼にはないのだろう。だから私を連れていかない。一度頼んでみたけれど、曖昧にして誤魔化すような言葉の、しかしその芯に含まれた確固な拒絶にたじろいだ。これ以上踏み込めば均衡が崩れるのだと悟った。そしてそのとき漸く、私と彼には不安定なものの繋がりしかないのだと気づいた。怖くなった。不安になった。そうした感情の痣は未だに消えずに残って私を煩悶させる。
 近づけなくて。遠くて。ここに居ることを許されているのに、これ以上を望んでしまう。浅ましく、傲慢だと思う。分け合えないとしてもそれでも触れたくて仕様がない。彼はきっと、私が望むことを望んでいない。薄い膜で包んで、私の指先を弾く。それは悲しいけれど、誰を、何かを責めてどうにかなるものではなかった。だけど、でも、だって。あぁ堂々巡り。
 無言の中で、不毛な進展性のない考えと理想が亡霊のようにとりついて私の理性を脅かす。浸食されていく理性にとうとう喉と目蓋が熱くなって、駄目だと思って顔を背けた。彼がこちらを見てる気がして、酷たらしい羞恥に頭がぐらぐらする。なかったことにするために立ち上がって逃げようとしたけれど、腕を掴まれた。その手のひらの思わぬ熱さと力に、暗い未来へ引きづりこまれるような気がして少しぞっとした。私を救う彼の優しさは、時折こうやって牙を剥く。意識的か、無意識か。しかしどこかで愉悦を感じる私はやっぱり醜い。私も同じところへ連れて行って、という言葉を飲み込んだ。言わなくたって、分かってる。彼は。その上で、この現状。

 彼は何も言わない。黙って腕を引いて、強引に隣に座らせる。マグカップ、中の甘いコーヒー、テーブル、床、壁。手のひら。全部滲んでいって。彼の手のひらが腕から離れて、そのままマグカップを掴んだから、私を抱きしめる気は無いのだと、思う。なんて高望み。惨め、と脳裏に浮かんだ言葉がゆっくりと胸に沈んでいく。気のせいか、コーヒーの香りを掻い潜って血のにおいがした。故郷のにおいに似てる。彼の闇の標しかもしれない。だとしたら、私はきっと愛おしむことができるのに。その確信に、沈む言葉が鈍く、痛んだ。彼が望む距離を黙って咀嚼して。その苦さに顔が歪む。縁に溜まった涙がぼろりと落ちた。少しでも掻き消すために冷めたコーヒーを引き寄せて流し込んだけれどじくじくした痛みは消えない。意思に反して溢れ続ける涙に、止まれ止まれと憎しみさえ混めてみるけれど上手くいかなくて。ぐ、と唇を噛んだ。

(受け入れない、立ち入らせない、触れさせない、なのに逃がさない。そんなの酷い。)