やぁ、と聞きなれない声に反射的に顔を上げると、すぐに後悔が牙を向いて襲ってきた。また子は自然と、身構える。
「なんだか随分悲しそうな顔してるね」
鼻を鳴らして答えると、神威は躊躇なく向かいの席に腰を下ろした。アップルパイと紅茶と一冊の本と携帯。完成されたテーブルの上にドリンク一つとハンバーガーの山が追加される。
不純物の投入に心からの嫌悪で威嚇するまた子の意思を汲むつもりはないらしい。神威はさっさとドリンクの蓋にストローをさして飲みはじめる。
「あんた一人でマック?」
「その台詞そのままそっくり返すよ。いつも高杉に引っ付いてるのかと思ったけど、そうでもないんだね。恋人でもないんだって?」
「それってあんたになんか関係あんの」
「全然関係ない。でももし今ここに高杉が居たらちょっと嬉しかったかな。」
「お前なんかに会わせたくないっス、二度と晋助様に近づくな」
「それは君の都合であって、『晋助様』の都合じゃないだろ。そうやって勝手に決めるのってよくないんじゃない?」
「じゃぁ、今の私はあんたとこうしてお喋りするのに都合が悪いから別の席に座って。」
「俺はこっちのほうが都合がいい、君の都合なんか知らないな」
「お前はジャイアンか」
「よくいわれる、今度リサイタルに呼んであげるよ」
「結構っス」
どういう体内構造になっているのか、会話の合間に器用に食べ物が消えていき、ハンバーガーはすでに半分ほど減っている。そのままの勢いで食べ尽くすかと思いきや、神威は掴んだハンバーガーをこじんまりとした山へ戻すとテーブルの上で腕を組み、少しばかりまた子の方へ身を乗り出した。視線の先は、また子の前に置かれた一冊の写真集。どこか遠くの国の美しい空を映したものだった。凪いだ青空から鋭い稲妻の一瞬までおさめられている。先ほどから開いたままになっているのは、太陽が沈みかけた地平線。
「俺の故郷はね、こんな風な夕焼けってめったに見れないんだ。ずっと曇ってるから。」
とくに懐かしむ口調ではなかった。思慕の念も感ぜられない。ただ話題としては少し意外だったので、また子はそれにひきよせられてしまう。
「どこそれ」
「うーん、君の考えもつかないところかな」
あっけなくかわされた答えに好奇心は急速に冷え切って、それ以上掘り下げることはしなかった。舌打ちでもしたい気分だったが追い返すのも面倒で、また子は手持ち無沙汰に、ぺらぺらと写真集をめくる。別にこんなもの好きでもなんでもない。なんとなく何か買いたくて目に付いたものをレジに持っていっただけだ。財布が寂しくなっただけで気は晴れなかった。このまま中古書店に売りに行ってもいいかもしれない。少なくとも、時間は潰せる。
「家に帰りたくないの?」
心を読まれたようなタイミングにまた子の心臓が跳ねる。神威の様子を伺いたかったが、耐えた。じっと黙っていると、跳ねた心臓から苦々しい感情が吐き出されて、身体中にめぐってゆく。
「あんたは誰になにされても平気で、誰かになにかをすることも平気なんだ」
自分の言葉の真意には気づかないようにした。弱みを見せたことは分かっていたが、不思議と後悔はなかった。
本を閉じようとすると、さっと手が伸びてそれを阻む。傷つき再生を繰り返して、粗暴な気配を纏った手だった。優男風の見た目にそぐわない。それゆえ本質がよく出ている。
「平気だよ。全然。それに俺はこういう自分が嫌いじゃない。ついでに、」
まるい爪をした指先がページをめくり、先ほどの夕焼けを開いて、止まった。
「そうやって傷口ばかり心配する、君のことも、嫌いじゃないな」
「そんなに気に入ったらなら、あげるっスよ」
神威は顔を上げて、子どものような愉楽を湛えた瞳にまた子を映す。その色は極上の快晴。また子は視線を交わらせることはせずに、手元の写真をじぃとみつめた。
目が眩むほどの美しい橙色。二度と取り戻せない日々の終わりを告げる落日。きっと、足掻きようがないから、悲しいのだ。胸を苦しく締め付けてたまらなくさせる。そういう感傷をものともせずに緩やかに微笑む男を見る自分は、きっと怨嗟の目をしているに違いない。
また子はゆっくりと立ち上がる。
「その本」
吐き捨てるような続きの言葉に、神威はいっそう楽しげに笑みを深める。
「ありがとう。大事にするよ。」
最後の言葉はあまりにも白々しく響いて、また子は息を吐くように自然と笑ってしまった。それを嫌な形で引き止めて、鞄を肩に掛けると歩き出す。
ここにある空は夜の帳に覆われてどっぷりと暗く、瞬く星も月も見えやしないけれど、街は沈むことなくぎらぎらとざわめいている。