本部の廊下は何時も俯いて歩くことにしている。そうするとこの場所から消えうせられるような気がするからだ。自分の体の回りに見えない膜ができて、それに包まれている間は誰の姿にも写らない。誰も干渉してこない。勿論声だって聞こえないはずだ。そのはずなのに、膜をぐにゃりと引き裂く忌々しい奴が稀に居る。
「やぁ、久しぶり」
声だけなら無視のしようもあるが肩を掴まれたとなると諦めるしかない。非常に残念だが。それに声を聞く限り相手が悪い。どうしようもなく。せめて何かの間違いで、傍に居るのが今頭に思い浮かべた人物ではありませんようにと祈って顔をほんの少しあげた。認識した瞬間、不愉快がみっちり詰まった呻き声が自然と飛び出す。
「うげぇ」
「えー、そのリアクションは酷いな。ちょっと話そうよ。ひさしぶりだし。2ヶ月ぶりぐらい?」
ぎろり、と。喧しい淡いオレンジ頭を飛び越えて、無精髭の大男を睨む。男は気だるそうに片手を挙げて肩を竦めるジェスチャー。子守の分際で、自分のところの悪童に絡まれた通行人を助けるつもりは無いようだった。よくよく見れば片腕をなくしたらしい。二人居たはずの子守り役も、もう一人が見つからない。ざまぁみろと視線で吐き捨て、すぐに俯いた。全身で係わり合いになりたくないことを示しながら手が離れたのを好機に早足で歩く。
「ねぇねぇ、2ヶ月じゃなくて3ヶ月かな?結構会ってないよね。まだ『きへーたい』ってやつに入ってるの??」
にこにこにこにこ。人の良い笑顔を浮かべていることは、見なくても分かる。そしてそれが好意的な意味合いでないことも知っていた。この男はその無邪気さであっけなく人を殺す。それが世界の摂理だというように。まるで生まれたての赤ん坊だ。自分が望めば何でも手に入ると確信を持っている。そして実質その通りなのだから救いがない。生まれながらに持った、圧倒的な暴力。その力を羨んだときもあったが、今では気持ちが悪い。ありあまるということは、ときに悲劇だ。
「…とうとう師匠も殺したそうスね。さすが第七師団団長。頭のおかしさも常人並じゃないようで。」
「あぁ、それ俺の手柄になってるけど本当は違うんだ残念ながら。それに、俺たちが殺しあうのは別におかしなことじゃないしね。」
「へぇ、そうっスか。じゃぁ、私みたいな虫けら相手にしてる暇があったら同属同士で殺し合いでもしてきたらどうっスか。」
「うんまぁそうなんだけどさ。でも虫けらの観察って案外楽しいよ。飼ってみてもいいかなって最近思うんだけど。ねぇ、阿伏兎?」
「オイオイ勘弁してくれよ団長。なぁ、あんたもそう思うだろ?大体子どもが飽きたペットの世話は誰がすると思う?」
「母親っていいたいとこだけど、あんたのとこの駄々っ子なら飽きたら殺すでしょ。後始末もちゃんとできる子どもで鼻が高いっスね。」
「ちっ、ヒネくれた嬢ちゃんにクイズ出すほどつまんないことはないねぇ」
「えー、それって俺が子どもってこと?大丈夫、俺はちゃーんと世話するよ。餌も散歩もさ。めちゃくちゃ可愛がるよ。」
「無理無理。それはそれで抱きしめすぎて絞め殺すのがオチだ。めちゃくちゃに。」
「んー。なんだかそれどっかで聞いたことがある気がする。なんだったかなぁ…って歩くの早くない?疲れちゃうよ。」
「急いでるんで」
「そんなに扱き使われてるの?」
「そうっスね。今現在特に。」
「へー大変なんだね」
「そうっスね。今現在特に。」
「あ、思い出した!昔俺の妹がさぁ、ウサギ飼ったことがあって、一緒に寝てたら絞め殺しちゃったんだよ。面白いよね。俺こっそり爆笑しちゃった。」
「あー、面白い面白い。面白すぎて吐きそう。」
あと少し、あと少しと、念じ、ようやく目当ての部屋へ辿り着いたところで、とんと肩を押された。たったそれだけなのに、呼吸が止まりそうだった。叩かれたほうの腕がまだついていることに安堵して、次の瞬間には首ごと壁に押し付けられている。この男の力なら、骨を折るどころかそのまま頭部だけ持っていけるだろう。呼吸だけを殺すように、加減された力。腕に爪を立てながら引き剥がそうともがくが、無駄な足掻きにしかならない。正常な生命維持には足りない酸素に視界が暗くなっていく。そのぼんやりとした薄闇の中、哀れむようにこちらを見下ろす大男が酷く腹立たしい。
「そうやって俯いて。本当は何もかもが怖くて仕方が無いくせに。哀れだね。」
大男と違い、哀れむどころか楽しくて仕方が無いという様子で顔を覗き込みながら男がうたう。なんの未練もないように凶悪な手のひらが離れた瞬間、咳き込んだ。咽る勢いが激しすぎて、喉が焼ける痛みに涙が滲む。畜生畜生と、罵詈雑言が頭のなかどころか体中を巡っていく。
「弱いんだから大人しく搾取されてればいいのに。どうせ何しようが同じことだよ。それともあの男に守ってもらうの?」
「…っは」
「えー、傷つくなぁその鼻で嘲笑う感じ。」
「私が何しようとどう生きようとあんたには関係ない」
「酷いなー。俺は親切で言ってるんだよ」
しんせつ、の部分を強調するように言いながら男が髪を一束掴む。そのままぐいと顔を近づけられた。
ほの白いかんばせ。そこに在る、一対の眼を見た瞬間思わず顔を背けた。あまりに綺麗な青。その中にやどる化け物。ほらやっぱり怖いんでしょ?男が小ばかにするように笑う気配。
「合いの子の出来損ないがのし上げれるほど優しいところじゃないと思うよ」
激昂する感情を押さえ込むように拳を握り締める。歯噛みした奥歯が嫌な音を立てた。 そんなことは知っていますよ。だからこうして高等な純血種様にいじめられても逃げることもできないんですよ。それを口にする代わりに男の左肩に掛かった三つ編を掴む。今度は、じっと青と向き合う。口元は弧を描いているが、細められた瞳は笑っていない。残酷な光をぎらぎらはなつ。この光を持ってはいない。望んだところで手に入りはしない。けれど、この男にはないものが自分にはある。それは決して手放しで歓迎できるものではなく、忌むべきものかもしれない。けれども最後に残るのは燻るこの血だろう。眼前の男には理解の出来ない脆弱な、あまりに脆弱な血だろう。それを持たない、必要としないこの男は、屍の上に立ちながらも勝者にはなれない。そんな哀れで滑稽な王に吐き捨てた。
「くたばれクソ兎」