「きーじまさん」
放課後の茹だる廊下を、ひとクラス分のノート抱えて気だるく歩く来島は振り返る。その声の主があまりにも意外な人物だったことに(なので振り返る前、まったく見当が付かなかった)瞠目し、途端、居心地悪く思った。来島が口を開くのを遮るように、一つ年上の男子生徒が訊ねた。
「それ、どこまで?」
「…理科室っス」
「ふーん。じゃぁ半分持ってやりますぜ」
はいもいいえも聞かずに、日焼けしていないしかし剣道部のエースに相応しい力をつけた腕が来島の抱えたノートを半分以上攫う。部活はどうしたのだろうと思ったが、さぼりだろうと勝手に見当をつけた。剣道部には実力のある問題児が二人居る。その内の片方が隣を歩く彼だった。もうひとりは今日は珍しく部活に出ている。なので不本意ながら、来島はこの後一人で下校するしかない。
ありがとうございますと小さく言うと、返って来るのは、いえいえ、と平淡な声。
自分ほどではないが色素の淡い髪色の男子生徒の名前を来島は知っている。勿論来島でなくともこの学校の生徒の半数以上は知っているだろう。
「理科室に用事なんスか、沖田先輩」
「いや別に」
沖田はやはり起伏のない調子で答える。こそりと窺った顔付きも整っているばかりで感情は見えない。用事もないのになぜ荷物持ちなどに名乗りを上げたのか、ただの気まぐれか。こうして会話をしたのも今がはじめてだろうに。ぐるぐると考えながら、早く理科室に付けば良いと願う。早足で歩きたいが、沖田が構わずのそのそと歩くせいで、荷物を持ってもらっているという立場の来島もやはり歩みを落とすしかない。
「今日誕生日なんでさァ」
「…え、誰が?」
突然の言葉に思わず問い返してしまう。
「俺が」
話の流れとしては可笑しくはないのだが、当然のように告げる沖田はやはりどこかが変だ。しばしの逡巡の後来島は祝いの言葉を述べる。というより述べるほかない。
「それは…おめでとうございます」
「どーもどーも」
沖田はちっとも嬉しそうでないので、来島の陰鬱は加速してゆく。それを歯止めするようにふと思い出した。
「友達も昨日誕生日だったんス」
「へぇ、七夕に誕生日なんて浪漫があってオツなもんだ」
意外なことをいう、と来島がほんの少し沖田への見解を改めた直後、
「きっと難儀な恋愛をする星の上に生れてるに違ぇねェ」
見事なほどの急下降。時折見学に行く剣道部の練習時間にも人を食うようなことばかり(被害者は主に副部長だが)しているのでだいたいそんな人間なのだろうと思っていたが、だいたいそんな人間で違いなかったらしい。
さすがに昨日一緒に祝った友人に申し訳ないので来島はきっぱりと否定の立場をとる。
「そんなことないっス」
「いやいやどうだか」
「違うってば」
「だって年に一回しか会えないし」
「それと誕生日は関係ないっス」
「何故かいつも遠距離恋愛になってしまう。そんな恋愛ばかりだった私もようやく結婚。子どもも生れてこれから一緒に頑張ろうね、と、いうときに夫の急な転勤。単身赴任。まさにこの世の大迷惑。育児やママ友たちとの交流、時折孫の様子を見に来る姑との確執。夫とは年に一度しか会えません。日曜日に子どもと出かければ周りは家族連れ、うちだけが母と子。子どもの作文の「パパとキャッチボールがしたいです」という文を読んで知らず涙が…そしてそんな時夫が」
「あー!やめてくださいっス!なんかもう話の続きが嫌な予感しかしないっス!ていうかそんなことならないもん!絶対ならないもん!」
「あ、ほら、着きますぜ。早く届けてこねェと。」
ムキになる来島をよそに沖田は一向にのらりくらりという様子でノートの束を来島の持つノートの上に重ねた。理科室は校舎の奥まった場所にあるので沖田と来島が口を噤めば酷く寂しげだ。
言いたいことがなくなったわけではないが、これ以上問答を繰り返しても仕方がないので素直に礼を口にして終らせることにする。
「ありがとうございました」
「いえいえ」
結局沖田の目的が分からぬままだったが、暇つぶし相手ぐらいにはなったのだろうと結論付けて来島は理科室の扉を開けた。



「なんでまだ居るんスか」
「来島さんは酷いことをさらっといいますねェ」
人のことを言えた義理でもない沖田がさらっと告げる。まさか待っているとは予想しなかった来島は扉を後ろ手で閉めながらこれ以上なく怪訝な視線で真意を問う。
「プレゼント」
ぽつり、沖田の口から零れた。
「誕生日プレゼント貰ってねェんで、ていうかよこせ」
不躾な申し出に、来島はしかめっ面にも困っているようにもどうにもできない微妙な表情を浮かべる。ひょっとするとこれは遠まわしなカツアゲというやつだろうかと思い至った頃、沖田の美しいかんばせがぬっと近づいた。遠慮のない接近に来島は蛇に睨まれた蛙よろしく身体を固まらせる。後ずさろうにも先ほど閉めた理科室の扉が邪魔をした。まさか扉を開けて駆け込むわけにも行かない。
剣道部の取り巻きの数に相応しく、これほど近くで見ても端整な顔立ちは揺るがない。これで性格がねじくれてなければ完璧なのだろうが、神さまはそこまで完璧を追い求めなかったようだ。そしてそのアンバランスな様相は今にも取って喰われそうな威圧感がある。沖田の暗いルビィの色をした瞳がにぃと嫌な感じで笑い、来島の肩が跳ねた。
「やっぱやめた」
言うが早いか来島の手をひいて廊下を歩き出す。
「な、なんなんスか…!?」
「いやほら誕生日だから、その主役に付き合うのが人としての道理ってやつですぜ。あ、イチゴのショートケーキが食べたいなぁ。」
「はぁ?!何で、私が…っ。剣道部のやつらに祝ってもらえばいいじゃないっスか!」
前半は勿論、やつら、というところにも来島の本音が出ているのだが沖田は気にする素振りもない。
「あぁやっぱり七夕の呪いは次の日も有効なんですかねェ、ひでぇとばっちりだ。」
「だから、呪いなんてないっスよ!」
しつこく喚く来島をもう一度にやりと笑う彼はやはり手を離さない。