現れないだろうと疑心とも確信とも付かない曖昧な心地で黒い土を見つめていた沖田のもとに、来島は時間通りにやってきた。椿色の上等な着物に小紋染めの淡色の羽織。両手には何も無い。そして、いないと思ってた、と一言。それきり黙りこんでしまった。沖田も同じように口を噤んだ。かつて与えられた、荘重な黒で染められた服は部屋の机の上に皺一つなく畳んで置いてある。刀はその横に眠らせた。
袖から抜き出た白い手を握り締めると、やけに冷たかった。手を引くようにして、人気のない道を通り越し殆ど山道のようなところに入った頃、雪がちらちらと舞い落ちた。大粒の牡丹雪だった。寒さが増した。吐く息は変わらず白くて、一呼吸ごとに魂が抜けていくようだった。先ほどまでやっと歩いているという様子だった来島は今では人形のような容貌をしている。虚ろというのは時に奇怪な艶やかさを引きずり出すもので、来島もその洗礼を得たのか、薄氷のような脆い婉美を抱いていた。かつて覗かせていたものよりずっと濃い気配。今自分が掴んでいる女は偽者で、本物の来島は今まで通りの場所に納まっている、その中の必要のない抜け殻だけがここへやってきたのではないかと沖田は考えた。愚にもつかない迷妄だった。だがあながち間違いでもない気がした。沖田自身も同じように、過去も未来も必要の無い部分だけで構成されていて、だというのに自分を本物だと思い込んでいる、哀れみがおがくずのように詰まった複製なのではないかと思った。その想像はいくばくかの慈悲を持って沖田を慰める。そうであったなら、きっと倖せだ。いま自分たちは不倖せに向かって歩いているのだから。最後の言葉は、肺病患者が血痰を吐くように避けようもなく喉から転げた。そこに感情はなかった。来島は何も言わない。ただ微かに笑った気配がした。沖田の手をぎゅうと握る、その心もとなさに、たまらず身体を抱き寄せる。
後悔はしていなかった。それでもあまりに怖ろしい行いだと思った。生きるために従属に似た執着で利用したものをかなぐり捨てて、こうして二人、当ても無く歩いている。どこへもゆけぬと知っていながら。
「このまま雪に埋もれて死んじまおうか」
ぐっと来島の頭(こうべ)が沖田の肩に押し付けられる。掌は冷たかったが、女の身体は思う以上に熱かった。しゃくり上げる声が聞こえて、泣いているのだと分かった。内側に溜め込んだ熱を出し切るように、涙を零す。この熱では雪も解けてしまうだろうなァと沖田はいやに凪いだ心で濡れた金糸に頬を当てた。朽ちる冬の冷たさを掻い潜る生の甘い香りに、喉の奥がつんと痛んだ。