これは憎悪ではないなと思った。では何か。羨望か。馬鹿馬鹿しい。綺麗な銀糸を手で梳いた。記憶の中の亡霊と、違うその色に安堵しているのか、それとも悔悟か。胸の蟠りは私を殺そうとするけれど、その正体さえ分からない。理由のないまま自分自身に殺されるというのも、それはそれで愚鈍な私らしくていいかもしれない。
「先生のそういう、俺のこと見ないところとか好きだよ」
梳いていた手をつめたい手に阻まれた。声音がくぐもっているのは泣いているからではないのだろう。暗澹とした呟き。息を吐くように笑う。皮肉めいた眼差し。親がいないのだと聞いた。見たことが無いと。家族を。
「嘘。嫌い。愛してる。ねぇ、」
手首が冷たい。掴まれたところから低い体温が流れてくる。浸食される。唇が触れて、首筋に落ちる。泣きたくなった。
私には父も母も居る。幸せな家庭だったと思う。父も母も確かに私たちを大切に想ってくれていた。だからこそ私の一番愛した家族は消えてしまった。私の前から。触れる温度も、匂いも、仕草も、少し低めの優しい声音も、全部覚えているのに、そういうものは消えないのに。血のつながりと、幸せな家庭を呪った。幸福であればあるほど浮き上がる罪悪を生き埋めにして。そうして兄を苦しめた。
「ずっと好きだよ。このまま逃げちゃおうよ。先生と生徒なんて、辞めちゃえばただの普通の人間じゃん。俺が先生のこと守るから。」
だから捨てないでとでもいいたげな台詞に、笑ってしまう。私が縋った言葉と似ている。家を出て行った兄は振り返りもしなかった。捨てられたわけじゃない。捨てさせたのだ。なにもかも。
それに私たちは辞めることなどできなかった。出来るわけがない。事実をどう拒絶できるというのか。
ふつふつと擡げる理不尽な苛立ちが口の端を吊り上げた。子どもの戯言だ。陳腐だ。くだらない。忌々しい。目の前の生き物は、思い出したくないことを思い出させる。
「それで?『そうして二人倖せに暮らしました。めでたしめでたし。』?おとぎ話みたいっスね。笑えない。」
夢を語る当人が一番絵空事だと知っているくせに、縋る仕草が気に食わない。あぁ本当に忌々しいものを思い出す。哀れな子どもが顔を上げた。手のひらが離れる。瞳の赤は本当に燃えているみたいに感情を滾らせて。悲しみ。憎しみ。落胆。そうやって失望すれば良いのにと思った。打ちのめされてしまえばいい。親に捨てられ、生まれたときから否定されたのだいう事実を初めて知ったときのように。愛して欲しい人に愛されないのだと、世界の不条理を理解したときのように。そういう願いをこめて噛み締められた唇を指でなぞった。夢なんて見たって仕方がない。おとぎ話の暗号を解いてしまえば周到に隠された悲劇に気づいてしまうだけだ。
ぱちんと、腕の弾かれる音。抵抗せずにそのまま素直に腕を下ろす。さっきまで触れていた、痛々しい唇が戦慄きながら開いた。声はない。それでも言葉が聞こえてくるような気がして、耳を塞ぎたい。