男の手のひらが穏やかだったから私は脅えた。何かを奪おうとするときこの男は驚くほど優しくなる。きっと侵食の感覚が心地よいのだろう。過去にあったはずの略奪の記憶を探って。なんと愚かしい優越だろうか。渇いた喉が鳴る。折られた腕が痛んだ。時計の音が遠い。手のひらが下腹部をなぞったところで目を閉じた。きつく。まだ何も変わっていない。平らで、まさかなかに人間が入っているなんて到底思えなかった。いずれこれがはち切れんばかりに膨らむのかと想像したら吐き気がした。それは男も同じなのではないかと思った。
閉じた目の中で闇が私を祝福する。耳鳴りがした。規則正しいそれは私の内部をひとつひとつ丁寧に壊していく。ぐ、っと異物を感じて悲鳴が零れたけど、いまさら耐えることも馬鹿らしくてやめた。漏れる自分の熱っぽい呼吸に小さい頃にみた犬の交尾を思い出す。あぁ、私は犬か、なんて、思って、耳鳴りが一層酷くなった。耳を塞ぎたかったけれどそんなことをすれば殴られるかもしれないから、じっと耐える。息が苦しい。いっそ全部殴り殺してくれたらいいのに。記憶の中の雌犬が、潤んでつやつやと光る黒い目で私を見てる。じくじくとお腹が痛む。犬が見てる。一度だけ、残して持って帰らされた給食のパンをあげたことがあった。次に見たときその雌犬は私の一つ上の学年の男子に石を投げられていた。背中に当たったら10点。顔は20点。目は30点。お腹は40点。なぜ一番狙いにくいはずの目より明らかに当てやすい腹部の得点が多いのか、そのときの私には分からなかったけど。今なら一緒になって石を投げてもいいかもしれない。私は最高の得点を目指して投げるだろう。堅い石を。これ以上なく暴力的に。
犬が鳴く。やめろ。荒い息。もう私を見てはいない。歓声を上げて石を握ったあの男子は一体幾つ点を得ることができたのだろうか。腹の中の得点盤はどうなったのだろうか。甲高い鳴き声が不愉快だと忌々しく思ったら私の口から出ているのだと知って、哀れで仕様がない。激情に任せて腹部を掴んで爪を立てて。
ここから出てくるのは

(きっと、みにくいばけもので)

この美しい世界を呪うだろう。目映いものをひとつひとつ喰らってゆくだろう。ひょっとしたら石を握る日もあるのかもしれない。そしていずれ絶望して死んでゆくのだろう。しかしそんなくだらないこと私にはまったく関係のないことで。


さぁ、耳を塞げ