(感触のない世界に溺れる。沈む。沈んだ先で見上げた空にはもうなにも見えない。)





なんとなく馴染めない教室を抜け出して。日陰のコンクリートに寝転んで中途半端に見える空を仰いだり。青春だなぁなんて思ったり。嘆息したり。憂鬱になったり。夏の終わりの茹だる空気の無気力さと青々とした空の快活さのコントラストもはや暴力的だった。太陽みたいなキラキラしたものに粉々に打ち砕かれて、そういう気持ちを引きずって、フェンスに登って空を飛ぶ、の、かもしれない。学校の屋上からなんてありきたりすぎて笑ってしまうけれど。
長く、長く、息を吐く。目を閉じる。10、9、8、7、カウントダウン。0になって目を開けた時に世界が滅びていればいいのに、なんて、期待して。まぁそんなことはないんだろうけど。別に何も変わらないんだろうけど。と思いつつも数は数えてしまうわけだけど。6、5、4、3、

「授業中、のはずなんだけどなぁ」

2まで数えたところで声がしたので反射的に目を開いた。白衣の男が気だるげに見下ろしている。世界はなにも変わらない。いや、むしろ余計なものが増えてしまった。国語教師なのになんで白衣なんだろうなんて思いながら、驚きでやや間抜けになっているだろう表情を引き締める。無理矢理作る無表情は結構力が要る。

「先生もサボりなんスか」
「『も』ってことは来島はサボりなわけだな」
「違うっス。休憩中っス。」
「へぇ。そりゃぁ随分なご身分ですこと。」

先生はそのまま私の左側に腰を下ろした。雪色の髪が青い空を背に靡く。胸ポケットからは煙草とライター。生徒の前で吸うんスか、と小言を言ったらこずかれた。煙草のにおいが風に乗る。先輩のとは違う。万斉のとも違う。先生はため息を吐くように煙を吐き出した。横目で私を見下ろす。私はそれを見上げる。

「いつまでもこんなんじゃぁしゃーねだろ。お前が嫌でも周りは変わっていくんだよ。」
「先生、さみしそうっスね」
「……俺の台詞先に言われた場合どうすりゃいいのかね」
「私、3zが大嫌い。」

3z、としか言わなかったけれど先生には去年のz組だということは通じたようで、知ってる、とあっさり返される。あまり感情が籠もっていないことに安堵する。先生は今回担任を持っていない。
なんで嫌いかぐらい聞けばいいのに、と待ってみるけれど興味がないのか、見透かしているのか、先生は別のことを口にした。

「友だちとかさー。作れよ。好きな奴でもいいし。お前ねー。今青春真っ盛りなわけですよ。俺みたいなおっさんとは違うわけですよ。」

茶化すような言葉には薄い膜が張られていて。言っている当人がその内容にくだらないと一蹴しているような距離を感じる。まぁお前にはそういうの関係ないのかもしれないけど、って台詞が今にも続きそうな距離感。きれいごとが上手くいえない教師なんてどうしようもないと思ったけれど、そういうところが慕われる所以なんだろう。私の先輩への執着を愛なんて陳腐な定義で片付けないあたりやっぱり見透かされているのかと思うと、居心地が悪い。悔しいから、理解できませんって顔ぐらいはしておく。愚昧は防衛。しかし無言は降伏。
マネキン工場の商品みたいなクラスメイトもコレぐらいの野生的勘を持てばいいのにと大した期待もなく胸中で吐き捨てた。そうすれば少しは仲良くやっていけそうな気がする。逆を言えばそうでなければままごともできそうにない。

夏休みも終わって心機一転新学期だというのに、未だに見つからない上履きとか、教科書や机の見に覚えのない落書きとか、そういうのを気に病んでいるわけじゃない。例えばそういう意図的な遺失がなくなったとしても、未必の悪意が消えたとしても、私の中の空洞が埋まるかといったらそんなことは、きっと、ない。
頭の中にも胸の中にも、あるのは、虚無だ、寂寞だ、感傷には程遠い。いっそ頭がおかしくなればいい。そう願ってみるけど、狂っていく手ごたえは一向に訪れない。ぐるぐると汚濁みたいなフラストレーションは溜まるのに、無気力という壁が外に放出するのを阻む。先輩達が居なくなって、壁はどんどん高くなる。私の中身をひきづり出すだけの何かが足りない。そういうものを見つけろっていうのには、この閉鎖的な箱庭は狭すぎる。

空を掴むように、手を伸ばした。思いのほか几帳面なのか皺のない白衣に、指を滑らせて。口の端で笑う。

「じゃぁ、先生がそういうのになって」

すっと零れ落ちた言葉に、レンズの奥の鈍い赤が、憐憫とは違う悲しい色をした。私の目もきっと同じ形をしているんだろうと思ったらなんだか苦しい。滑稽だった。空虚が鳴いた。途方もない未来が見えて、作った微笑みが崩れる。あんただって本当は知ってるくせに、と目でものをいえば今度こそ同情めいた苦笑が返された。
ごろりと仰向けから、先生に背を向けるように横に方向転換。青空が消える。銀糸も消える。忌々しい顔も消える。長く、長く、息を吸う、吐く。歯噛みする。
手を伸ばしたって空が掴めるわけもない。打ち砕かれたって、空は飛べない。ただただ落ちるだけだ。落下落下ぐしゃり。何もかもを壊したくて、何もかもを消し去りたくて。そしてその残骸の上でゆっくりと眠りたい。今、髪を撫ぜる手のひらだっていつか消えてしまうことを私は知っている。




また子WEBアンソロジーさまに参加させていただいたときのはなしです。