彼は砂と血で汚れた私の手のひらをとりました。そして優しく微笑みました。血の滲んだ包帯で隠されていないほうの、その細められた眼には冷たい憎悪がみてとれました。冷たいのに、燃えているのです。触れたらその途端バラバラになってしまいそうでした。燃える一方で、そんな儚さがありました。彼はゆっくりと、私に訊ねました。私はそれよりも屈んだ彼の綺麗な着物が波に飲まれて汚れてしまったのが気になって気になって彼の貌から視線をそらしてずっとそればかりを見つめていました。そして、触れたところから流れこむ体温がこそばゆくて、嬉しくて、苦しくて、涙が溢れました。人の流した血でない、生きている温度は一人きりだった私を心の芯から慰めてくれました。彼はぽつりぽつりと彼自身のことを話しました。その声音に哀しみは周到に隠されていて、私はそれが一層悲しく感ぜられたのです。こんなに悲しい世界ならなくなってしまえばいいのに。私が言うと、彼は同意しました。そして、なくなってしまえばいいと感情の抜けた声で私の言葉を繰り返しました。黒い瞳は底のない虚無でした。隠されたもう一方にはなにがあるのだろうとぼんやりと思い、そのときにはもう、私はこの人の傍に居ようと決めていました。いくら血を浴びたって、死臭で呼吸が出来なくなろうと構いませんでした。私たちが触れられるものは限られていてだからこそ傷ついたり傷つけたりを繰り返していつしか血にまみれた世界で途方にくれるのだろうけれど、その世界を愛することは出来ないのだろうけど、彼の世界を洗い流すことは私にはできないけれど。でも私があの時触れた温度は確かに私を救ったのです。私は無力だけれども、そんな無力な私を彼は救い上げてくれたのです。冷たい月、肌を打つ風。血の匂いに混ざった海の匂い。ざらついた砂。彼の眼差し。私の孤独。彼の世界。私の生きる理由。



 どうやら彼は諦めたようでした。いいえいいえ、一言も、誰も、彼だって、そんなことは言っていません。明言していないのです。それでも傷だらけの彼を見ていれば分かりました。今までの彼と違う男の人がそこにいました。分からないはず、ないのです。だって私はずっとずっと、見てきたのですから。介入できない領域でも、傍観することぐらいはできるのですから。私の神さまは消えてしまいました。私の生きる道は潰えてしまいました。銀色の髪の男が彼に何かを言いました。彼は刀で支えるように立ち上がって男を見ました。何を喋っているのか、聞こうと思えば聞こえる距離のはずなのに聞こえない。ざわざわと波の音がして聞こえない。あの夜に似ている。いいえ、これはあの夜の波の音なのです。月の光なのです。彼はどんどん遠くなります。心臓が早く動きすぎて眩暈がします。吐き気がします。万斉が私を支えるように肩を掴みました。私は折れた左腕のことを今更のように思い出しました。あぁ波の音が五月蠅い。彼が私を見ました。でも彼はもう私の神さまではありませんでした。黒い瞳を見たときに、波の音は消えました。それはあの時の瞳ではありませんでした。自分が笑っているのか、泣いているのか。もうわからなくて。喉が詰まって。こみ上げて。その時、どうしてか、昔死んだ、一番大嫌いだった同志を思い出しました。彼の影を映す光を追いかけて追いかけて、そうして死んでいった可哀想な男。最後は人の形ですらありませんでした。あの愚か者は何もかもを犠牲にして、しかしただ一つ欲しいものがあったのです。ただそれだけがあればよかったのです。彼が、あの男の死を悲しんだかどうか、その時は気にならなかったけれど、今、なんでか猛烈に気になってしまって。あの愚かな男は幸福だったでしょうか。あの男の死に自らの未来を見てしまった私はその事実を塗りつぶして、そして今その塗りつぶした闇に一緒に飲まれそうになっているのです。あぁ、結局私は傍に居てもずっとずっと一人ぼっちに一人の世界を見つめているだけで、何も共有できずに何も掬えずに、救えずに。喪失に耐えかねたから器ごと壊してしまおうと思ったのに、結局また同じように縋ってばかりだった。叶わぬ理想に駄々をこねているだけだった。あぁ、何もかもを捨てたという顔をして、貴方にはまだあったではないですか。いつだって取り戻せるような、傷だらけの、けれど強く救い上げてくれる腕があったではないですか。でも貴方がいても私はひとりで、いなくなってしまっても、私はひとり。貴方が手を取ってくれたあの時私は確かにひとりきりではなくて、その瞬間だけは世界は幸福でした。その変化はあまりにも美しく、私は傲慢でした。生きていけると、そう思ってしまった。確信を持ってしまった。今の貴方がそうであるように、祈っていますね。貴方が倖せでありますように。貴方が世界で一人きりでありませんように。でも同じぐらい、貴方が不幸せでありますように。ふとした瞬間限りなく孤独でありますように。あぁ、さようなら、さようなら。こんな死にぞこないの世界にも、そこで生きていく、亡霊になりきれない貴方にも、もうなにも掛ける言葉がなくて、吐き出したい希望も失望も何一つとしてなくて。消えた光を追うための、手のひらから流れたあの温度はもう無いのだと、ようやく分かって。私は右腕を掲げて、万斉の息を呑む音も初めて見る晋助様の表情も何もかも銃声でかき消した。