「プールに行きたい」
「…こんな時間ではどこも営業してなかろう」

 万斉がテレビを見ながら言う。私のほうは見ない。テレビ画面に映るニュースではどこかの国の餓えた子ども達がはにかんだ様な笑みを浮かべていた。ナレーターが言った国の名前は聞き覚えがあったけれど地図の、地球の、どのあたりに存在しているのかは分からない。先輩に聞いたら分かるだろうか、と考えて、視線を移す。画面の左上に浮かんだ白い文字は0:57。

「学校、忍び込めばいいっスよ。」
「青春でござるなぁ。若い若い。」
「前に誰かがやったって聞いたことあるっス」
「羨ましいな。そういう、青い春とか若さとか。」
「ねぇ」
「高校もあっという間に終わってしまう。それだけ充実してるということかもしれぬが。」
「行きたいんスけど」
「あ、ほらこの後の番組面白そうでござるよ。下世話な感じが。」
「もういい。一人で行く。」

 気の無い返事の往復に苛立ったわけではないが、じれったくなって立ち上がる。1人で行ったところでなにか不都合があるわけでもない。ただ話し相手が居なくなるだけだ。万斉は呆れたのか諦めたのか、だるそうな動作でリモコンの電源ボタンを押す。ぷつんと音を立てて、画面が消えた。
 見たかったのに、と大して未練がましくもなく言いながらガラスのテーブルの上にあるバイクの鍵を取ろうとした万斉に自転車がいいと主張して、鍵を手のひらで弄び見せ付ける。それに少し眉を顰めた後、息を吐くような肯定の言葉が聞こえた。その後、ぽつりと言う。

「わがまま」
「じゃぁほぉっておけばいいじゃないっスか」
「晋助の前じゃこんなことしないのに」

 演技掛かった口調と嘆息に返す言葉が無かったわけではないが、万斉なりのこの災難に対する意趣返しなのだと思って、黙って玄関に向う。万斉の部屋のドアは重い。





 カラカラとタイヤの回る音。虫の鳴き声。深夜の気配。どことなく虚ろな寂しさを髣髴させる。この辺りは、昼間は喧騒があるだけにいっそう寂寞だった。昔、何故夜は太陽が出ないのか不思議でたまらなかったことを思い出す。夜も太陽が沈まずにいればずっと遊んでいられるのに、と考えたあの頃の私は自分が超人だと信じていたのだ、きっと。

「結局拙者が肉体労働…」

 自転車をこぎながら、呻くように言う万斉の背中に1トーン高い声で答える。

「帰りは私がこいであげるっス」
「…期待してる」

 コンビニの前を通り過ぎたので、帰りにアイスを買っていこうと思った。バニラ、チョコ、抹茶。色々頭に浮かべて自然と記憶の中の味が引き出される。幻想の舌にのせられる甘味。ソフトクリームでもいいかもしれない。確か先輩は、抹茶のソフトクリーム食べてたなぁ、とか、あれは去年の冬限定だったやつだったかなぁとか、考えて、考えて、

「他の男の部屋に行って、夜中に2人きりで出かけて、後悔しても知らぬぞ」

 万斉の言葉に漸く長い間沈黙だったことに気づいた。若干の躊躇いが窺えた声音に、罪悪感が芽生えないことに安堵する。虫の鳴き声に蛙までが混じり始めた。見渡す限り家ばかりなのに、何処で鳴いているんだろうか。コンクリートだらけの世界の抜け穴にこっそり住んでいるのだとしたら少し可哀そうな気もする。

「私は先輩と付き合ってないし、あんたとも寝てない。」
「気持ちの問題とかの、話。結局、晋助のことが好きなんでござろう?」

 「好き」という言葉に今更ながら心臓が跳ねた。落ち着かせるために、口角を上げる。さっきと同じぐらい明るい声を出すように努めて、少し笑った。そうすれば大抵上手くいく、はずだ。

「じゃ、このままUターンしてコンビニ行ってアイス買ってから、家まで送って。そしたらもう会わない。」
「思うに、また子ちゃんは酷い」
「アイスぐらいなら、驕ってあげてもいいっスよ」
「ほら、そういう風に逃げるところとか」

 万斉が言い終わると同じぐらいのタイミングで、擦れるようなブレーキ音が聞こえて、自転車が止まる。荷台からの衝撃に思わず顔を顰めた。万斉の言葉を反芻してさらに渋面になる。
 のらりくらりとかわしているつもりはないが、これでは先程の万斉とあまり変わらないのかもしれない。私は立ち上がって歩きだすことができるけど、それは万斉が決定的に見離さないことを知っているからで、じゃあ彼が今、私がするように憮然とここから立ち去ったら私はどうするのだろう。たぶん、追うこともできず、かといって立ち去ることもできずに茫然と、夜が明けるまで立ち尽くしているのかもしれない。万斉が戻ってきて、仕方がないといった風に苦笑するのを期待して。

 返す言葉がこれといって見つからなかったので何も言わずに荷台から跳ねるように降りて、校内へ侵入するためにところどころ剥げた緑色のフェンスに攀じ登る。がじゃがじゃと音が鳴ったけれど、コレぐらいなら見つかる気配も無い。見つかったとしても、まぁ、逃げればいいだけの話だ。今のうちから言い訳を考えておくのもいいかもしれない。私が登りきって校庭に着いてから後に続くつもりなのか、万斉がフェンスに手を掛ける気配は無い。二人そろって攀じ登っている姿はさぞや滑稽だろうから、正しい判断だと思う。

「晋助といる時間より、拙者とのほうが多いかもしれぬよ」
「そうっスね」

 自嘲なのか馬鹿にしているのか、笑いを含んだ言葉に間髪入れずに返す。万斉は何も言わない。顔が見えないせいでじわりと不安が滲んだけれどやり過ごした。なんだか、喉から少し下のあたりの部分が、じくじくと痛む。万斉は私にどんな言葉を求めているんだろうかと考えてみたけれど、すぐに止めた。「鍵、ちゃんとかけとくんスよ」と言うと、はいはいと投げやりな返事が聞こえたので、それと同時に校庭に飛び降りた。



 先輩とは夏休みに入ってから会ってない。連絡もしてない。携帯を開いては期待し、メールを打ちおえ、躊躇する。去年の夏は、もう少し距離が近かったかもしれない。そう思ってるのは私だけかもしれない。結局、去年も今年も変わらないのだろう。ただ去年は無意識に今年は意識的に、先輩より万斉と多く一緒にいるだけだ。
 だから、万斉の言っていることは間違ってない。指摘することは、大体あってる。それに堪え難い羞恥やうざったさを感じることもあれば逆に安穏な気配を思うこともある。ただ、客観視に長けてはいるけど主観的ではないと思う。万斉も先輩も。






 最後の難関のプール前の柵を乗り越えて、中に入ると思った以上に綺麗な水面が現れた。時折たぷんと揺れる、透ける青。胸の中に何かが埋まっていくのに、同時に零れ落ちていく感覚。それはさっき感じた寂寞と同じものだった。考えてみれば、学校なんて昼は喧騒と虚構の詰め合わせで、夜はその残滓の寂寥ばかりだ。けれど、街中で感じたものとこの箱庭に溢れているものは何かが違う気がした。後者は少し、嫌悪感がある。校舎の中で生きる自分が未だに自らをなんでもできて全てを手のひらに収めることの出来る超人だとどこかで信じていて、その醜態に対する自己嫌悪かもしれない。捨てきれない希望がそうさせるなら、このまま一生夏休みが終わらなければいいのにと思う。

「存外綺麗でござるな」
「水泳部が使ってるんじゃないっスか。夏の大会とかあるみたいだし。」

 靴を脱いで縁に座ると足を浸した。ひんやりとしたのが気持ちいい。万斉も興味ありげに見ていたけれど、入る気はないのかしばらくするとプールサイドの壁に凭れて座り込んだ。それを横目で見た後、空を仰ぐ。星はあまり見えないけれど、飛行機の赤と白の小さな光が動いているのは見えた。荒く足を動かすと、少し服に水が掛かる。しばらく足を蹴る動作を繰り返して、飽きたころに、嘆息というよりは感嘆に近い息を吐いて視線を下ろした。夏は好きだ。鋭さがある。しかし曖昧にするような、感傷。じわりと眼窩に熱がこもる。
 急にここに来たくなった理由なんてないけれど、ただ私は先輩とはこうしてここに来れないだろうと漠然と思った。それは先輩の意思とかそういう問題ではなくて、私の中で閊えているものだ。今度ははっきりと嘆息して、浸した足を戻すと立ち上がった。
 濡れた足で足跡を作りながら、万斉の傍まで行くと隣に腰を下ろす。膝を立てると抱え込んで顔を埋めた。眠い?と声が聞こえたから、首を振って答える。
 夏は好きだ。鋭さがある。しかし曖昧にするような感傷。プールの匂いも、蝉の声も、蛙の歌も、どれも緩やかな死の気配がする。そして皆緩慢な死を知っている。ちゃんと終わらせ方を知っている。でも泣きたくなる。いや、だから泣きたくなる。そういうものは、私の中の寂寞を浮き彫りにするから。
 夏が死んでいく。けれど、私は生きていく。呼吸。心臓の音。靄掛かった不安。熱。幻影。活き活きと慟哭していたはずのものが段々擦り切れていくのが分かった。それが悲しくてしかたがなかった。ともすれば惨めだった。疲弊すればするほど妄執していっているような気がして、おぼろげになりかければ元々そんなもの自体が嘘だったのではないかと疑心に駆られ焦燥する。私の気持ちはこのまま埋もれていくのだろうか。はたまた燻り続ける熱を抱えて生きていくのだろうか。どちらも残酷だと思った。渇いて思い出になる無彩の愛おしさも、断ち切れない未練も。それは季節が死んでいくような美しいものではない。次の未来に同化できるものではなく、置き去りにされたまま腐っていく。虫が湧き、異臭を放ち、しかし還る場所のないそれを、どうしていいのか私には分からない。醜いのは、今更なのに、どうしても受け入れることができない。私は選ばれた人間じゃない。得られないものがある。そんなの知っている。
 万斉のヘッドフォンから微かに女の歌声が聞こえた。何の曲かまでは聞き取れなかったけれど、ゆったりとしたメロディだった。

「夏休みが終わったら、今度は」

 言いかけて、口を噤む。女の歌が終わる。万斉は続きを促さない。それが答えだと思ったから、ゆっくりと顔を上げて、私も黙ったままプールを見た。水面に映る月はふわりとゆれて、笑っているようにも泣いているようにも見える。