陰鬱に身体を起こしてトイレにのそのそと向かう。本当は駆け込みたいけれど、できない。頭が鋭い痛みを訴えて平衡感覚さえ朦朧とさせる。今すぐここでぶちまけたい。憂鬱に殺される。陰惨な現実が私を刺し殺そうとナイフを突きつける。辿り着いたトイレのドアを開けたら、倒れこむように白い陶器に縋りついて胃の中を吐き出す吐き出す。今手元に世界を滅ぼすスイッチがあればいいのに。もしくは私を滅ぼすための慈悲があればいいのに。饐えた異臭。死にたい。嘘。生きたい。嘘。全部嘘。全部本当。恐怖と殺意が追って来る。今も背中に張り付いている。逃げ出したいのか飼い馴らしたいのか、あるいは飼い馴らされたいのか。喉が焼けつく感覚。眼窩の異物感。肉薄する不安感。きもちがわるい。内臓なんてなくなればいい。ぐつぐつと身体の内部が煮だってるようなのに、それと同じぐらい疲弊している。新しい未来を踏めば踏むほど擦り切れていく。退行していく。怖いのは分からなくなることだ。ひとつひとつ消えていく。忘れていくんじゃない。消えていく。大切なものとか意味とか理由とかそういうものが消えていく。
トイレットペーパーで口を拭いそれを陶器の水溜りに放り込むと、レバーを捻る。反乱を止めない臓腑を殺す方法を二三企ててその無意味さに忌々しく嘆息する。方向を見失った憤りを押し留めようとすると私を抹殺しようと暗躍する憂鬱が私の手を引く。連れて行かれる先は暗澹な愛憎の掃き溜めだ。それに埋もれて死ぬ私。
水を飲もうと、洗面台へ向かうと明かりがついている。怪訝に思う間も無く黒い影が見えて萎えた憤怒に火がつくのが分かった。影の正体である万斉はいたずらを仕掛けた子どものように笑ってコップを差し出す。身体の底から憎悪を込めて振り払うと、コップはあっけなく床に落ちた。水が、床に広がる。びちゃり。
「酷いでござるなぁ。人がせっかく」
「うるさい」
「ぐあいは良くなった?」
「うるさい」
「拙者が来たときはなんともなかったのに、抱いた時だってあんなに」
「うるさいうるさいうるさい!」
傍にある棚の予備のシャンプーやらムースやらをコップと同じように払うと、八つ当たりの被害者達は落下し、第一被害者の運命同様床に叩きつけられる。ゴトゴトというその音に眩暈がした。せめて静かに落ちるとか、そういう気遣いでもすればいいのに。なんて使えないやつらだ。苦しい。息が出来ない。違う、止まらない。あぁもう駄目だ。 「全部知ってて分かっててそうやってなにも知らないふりしてその御清潔な同情で私を殺そうとするくせに本当は心配なんかしてないくせに、本当は…っ」
激情が溢れうねり歪曲し無残な形で零れていくのと同じように涙が溢れて零れて止まらない。あまりにも無様な醜態に立っていられない。羞恥に似た悔悟やら不毛な形で繰り返される憎悪やらなんやらに喉を塞がれて窒息死してしまえばいいのに。きっとこの男は私に終わりをくれないだろうから。
万斉が屈んだ気配がして、ぎしりと心臓が歪んだ気がした。
「大丈夫?」
近くで聞こえた声に予想通り私と同じ目線に居るのだと分かる。心臓の歪(ひずみ)が加速する。黙っていると、背中に体温。穏やかに背中を撫ぜるそれに一層涙が零れた。嗚咽を殺そうと足掻く。これは優しさなんかじゃない。きっと今万斉の目は楽しげに細められ、口元には嘲笑を湛えてるに違いない。きっとそうだ。そうやって私が、無駄な希望を連ねて、差し出された手のひらに一喜一憂して、曖昧な言葉や態度に不安になって失望してそれに望みを重ねて、次に餌が与えられれば喜んで尻尾を振って、そうやって依存していくのを楽しんで高みの見物をしているんだ。自分は絶対に舞台に下りてこないで。逃げようとすれば甘い甘い優しさの檻に閉じ込める。私には誰もいないことを知っているから。寂寞と脆弱を笑って手のひらで転がして握りつぶして。支配と欺瞞と。なのに縋る私は馬鹿だ。嫌ならやめればいい。ただ、もし今の関係をやめて、万斉から離れて、それで自分がどうなってしまうのか怖かった。そんなことに恐怖を覚え始めた自分自身はもっと怖かった。どうしようもない。疲弊して衰弱して加速する忘却を抱えてそれでも求めて捨てきれない。ばかだばかだばかだ。(でも他に何もない、私には)
顔を上げると、万斉がわらう。それは喪失できないものをいとおしむようでもあったし、息絶える瞬間の他者の玩弄物を嘲るようにも見えた。どちらが嘘であっても本物であっても私はここから動けない。俯いて、奥歯を、噛む。手のひらを握り締める。瞳を閉じる。拒絶と渇望のジレンマが身体を震わす。そうやって背中を頭を撫でて抱き寄せて首輪まがいの言霊を吐いて。見殺しにしてそれでも愛していると言うつもりか。