身体が触れて、甘い匂い。離れて距離をとったときに見えた顔はこの世の不幸が全部詰まったみたいだった。血のついた包丁が落ちる音を合図に悲鳴があちこちから湧き出す。駆け出す不幸のオンパレード。廊下を走り去る後姿をどこかでみたと思えば、私を気にかけてくれた隣の席の男子の恋人だと気づく。いつも脅えた目で私を見ていた。白い肌が印象的な女の子。
悲鳴。ざわめき。叫喚。その真ん中に取り残されて。じわりと滲んだ吐き気に項垂れた。赤く濡れたセーラー服に、上手に感情が動かない。暗くなる視界に立っていられなくなってへたり込む。耳鳴りがする。ぐわんぐわんと圧迫されるようだった。その圧迫の間を縫って冷たいものが私の中に入り込んでくる。

けたたましいパニックを裂く大きな声が聞こえて、見上げると坂本先生が駆け寄ってくるのが見えた。その後ろにいる先生は途中で立ち止まった。坂本先生は私の肩を抱いて、「大丈夫」とか「救急車」とかそんなようなことを言って、その後棒立ちのままの先生に怒鳴った。先生が代わるように私を支えると坂本先生は立ち上がって廊下を走っていく。きっと私を助けるための何かをしに行ったのだろうけど、だったら坂本先生が残ってここに居るこの人に消えて欲しかった。傍にいるのだという意識を強めれば吐き気がいっそう酷くなる。周りをぐるりと取り囲んで、ちらほらと携帯電話を取り出し始める興奮しきった生徒達も気持ちが悪い。何もかもが気持ちが悪い。みんな死ねばいいと思ったけど、たぶん死ぬのは私だろう。なんだか笑ってしまう。死という未知の暗闇や続いていく未来を失うことよりも、この男に抱かれていることのほうがよっぽど怖気が走るのだという事実にも同じく笑ってしまう。もっとも口角はぴくりとも上がらない。

先生の顔は強張って、血をだらだら垂れ流す私よりも顔色が悪いんじゃないかと思った。私を支えるその腕で冷たい床に押し付けられたことや泣いても喚いても止まらない暴力を思い出して、唇を噛んだ。なんだか口の中まで血の味がするような気がした。
いつもみたいに、惨めな私を見て笑えばいいのに。嘲って吐き捨てて踏みにじって。そうやってきたくせに。
先生は白衣を脱いで、それを穴の開いた腹部に押し当てる。白い生地が赤く染まっていくのがちらりと見えた。死ぬなよ、と小さな声がした。迷子の子どもみたいに不安そうに、私を見る。いつもの声と全然違う。本当に、弱い声。肩を握る、強い感触。頼むから、と畳み掛けるように、擦れた言葉が落ちる。
冗談めかしてあいしてるなんて言われたところで私を傷つけるための一つの暴力としか思えなかったけれど、今なら少し信じてもいいかもしれないと不覚にも思ってしまった。そんな自分にショック死しそうだ。私の身体で一番重傷なのはあの子に刺された傷なんかじゃなくて、先生のナイフが刺さったままの傷口だった。惨たらしすぎて流す血もなくなって、もう壊死しかけているから、愛とか憎しみとか単純そうで複雑なことを判断することができなくなっている。
思い起こせばどの瞬間も陰惨なものばかりが溢れてくる。今流れる血のように、押さえ込んだところで止まらない。止まるようにできていない。それでもはじめから最後まで私を求めてくれたのはこの人だけなのだろう。途方も無い虚無を目前にして、そんなものに逃げている。牙を剥いて肉を喰らうような接触に都合の良い救いなんてものはないはずなのに、今更それを求めている。死ぬよりむごい絶望。こんなときまでこの男に蹂躪されているのだ。身体どころか心まで。
早く嘲るべきだ。それが本当の救いだ。最後まで馬鹿で哀れで可哀想なやつだな、なんて、哂え、哂え。さっき見せた弱さなんて翻して、嘘だといって。今ならその嘘だけは許してあげられる。突き落とされた黒い渦の底で飲まれるように消えていきたい。夢なんてもう必要ない。今更尾を引いて、こんな風な救いで誤魔化したくない。こんな醜く惨たらしい嘘みたいな救いなんていらない。だから嘲笑ってよ。ねぇ、お願いだから。
私の必死の祈りなんてまったくの無為で、先生は顔を歪めるばかりだ。周囲は暗く翳んで、表情さえも見えなくなってしまう。ぼんやりとした輪郭に向かってさっきは上がらなかった口の端を無理矢理ひき上げた。だって、この人が笑わないなら、私が笑うしかない。白衣を抑える微かに震えた手のひらに、迷いながら辿り着いて、その甲に指を重ねる。そして、ぐっと爪を立てた。心が手のひらに潜んでいるなら、皮膚を突き破って抉り取ってやるのに。