バイト先のパン屋で貰った売れ残りを入れた袋を提げて、サビて塗装がはげた階段を登る。カンカンカン、と足音が響く。かさかさと袋が鳴る。
 鍵をポケットから取り出して差し込んだ。閉じた扉の向こうからカレーの匂いがして、少し嬉しくなる。鍵を開くときと閉じるときの音に相違なんてないのだろうけど、私は閉じるときの音の方が好きだ。
 扉を開いても、ただいま、なんて言わない。かわりというわけじゃないけど「明日の朝ごはん、もらってきた」というと、ん、と短く返事。向こうだっておかえりなんていわない。
 部屋の主である先生はやる気なく怠惰そうに見えて必要なことに対しては勤勉だ。読みかけの文庫本を閉じるとすぐに腰を上げた。私はその間くつを脱ぐ。エナメルのくつは去年買ったもので、細かい傷が目立つ。新しい物を買わないとと思う。  先生は私から袋を受け取って、私は手を洗いに洗面台へ。少しばかり落ちかけた化粧を直す。台所に戻ったときにはヤカンがコンロの火にかけられていて、テーブルの上にはマグカップが二つ。二つともだらりとティーパックの細い糸が口から垂れている。先生は袋からパンを取り出している最中だった。
 マグカップは、元々先生の部屋にあったものと私が住んでいた部屋から持ってきたものだからペアではない。先生のは黒い無地のもの。私のは白くて苺のイラストが描かれている。100円ショップで一番マシな絵柄がそれだったのだ。


 ここに住めばいーじゃん。
 もうすぐアパートの更新時期で、けれどそのために保証人である疎遠の肉親と連絡を取るのが億劫だ。世間話の延長でそんな愚痴を吐いたところ、内容とリスクに見合わない軽やかさで誘われた。その数日後にこの部屋に持ち込んだものは学校で必要なものと洋服と最低限の日用品ぐらいであとは全部売ってしまった。
 引越しをしたことは誰にも言っていない。訊かれないから、というものあるけど、秘密というのはやけに甘美だ。まだそれに耽っていたかった。ひとつ、ふたつと増えるたびに嬉しくなる。こそこそとお気に入りのものを穴の中に埋める犬のように。そして、ある日突然何者かに掘り起こされて落胆するのだろう。


 適当に放られた週刊漫画誌を手に取る。ぱらぱらと捲って途中で目当ての漫画が先週から長期休載に入ったことを思い出して元々そうされていたように適当に放り出した。先生は文庫本から目を離さない。本屋で貰える紙のカバーが掛けられていて、本の題名は分からない。先生は学校では決して見せない表情をしている。暇を持て余した私はごろん、と横たわって眼を閉じる。



「寝んの?飯は?」
 掛けられた言葉で少しばかり眠っていたことに気づいて、ゆっくりと目を開く。蛍光灯が眩しい。先生の手の甲が頬に触れる。冷たいなあと思いながら、食べる、と答えた。冷えた紅茶を一気に飲み干してから、シンクに向かう先生の後を追った。こたつで寝ていたせいか少しふらふらした。
「いいから、あっち居ろよ」
「いい」
 先生がカレーをよそうのをぼんやりと見ていた。まだ意識が半分眠っている。
「今日は生卵かける、あとチーズも」
「ゼータクだなあお前」
 開きかけた口元をきゅっと噤んで卵を割った。頼まれてもいないのにもう一つ割って先生の方にも掛けてあげる。先生は不貞腐れたようにゼータクと繰り返した。トースト用の正方形のチーズを手で適当に割いて乗せて、いそいそとこたつに戻る。
 遅れて、先生がちゃんと居間に戻ってきてくれたことに安心した。そんな自分に舌打ちしたくなる。

 くだらないことで盛り上がるテレビ番組を観ながらスプーンで白米とルーをすくって口に運ぶ。流れる内容はくだらないが一瞬間の娯楽としてはなかなかなのだろう。先生をちらと横目で窺えばそれなりに楽しんでいるようだった。手元の皿の中身を見るかぎり私の方が食の進みが早い。そのままぱくぱくと食べ続けて、お皿が空になったところでごろりと寝転んだ。年期を感じる天井と蛍光灯。蛍光灯の紐は揺れない。先生が「牛になるぞー」と笑った。私も笑うけど、テレビから流れる作り物の笑い声にかき消された。

 先生の恋人になりたがる子はそれなりにいて、けれど私と先生の関係に気付いた人間はひとりもいない。勿論暴かれることのないように、慎重に隠してはいるけれど。
 引き出しの奥に隠すように仕舞ってあった幼い先生と先生には全然似てない綺麗な男の人の数枚の写真のこととか、毎月中ごろの休日には朝早くなにも言わずにどこかに行ってしまうこととか、その日の夜は明日という日から逃げるように夜中まで無意味につまらないバラエティ番組やマイナー映画を見ていることとか、私は何も聞かない。私はちゃんと、先生がしてほしいことを分かっている。先生の傍にいるやつらは全員先生のことが好きで大切にしたいんだろうけど、先生はそれが怖いんだ。与えるのは平気なのに、与えられると怖くなる。一方通行は楽だもんね。傷つくことが前提の傷は、我が身かわいさの自傷の痛みと似ている。そういう痛みの中には優しさと気持ちよさが蜜のように詰まっている。彼らの想いをやんわりと拒絶する先生を、ゼータクだと私は思う。死んじゃえ、と思う。


「お前、卒業したらどうすんの」
二つ並べた布団の内の一つにもぐりこんで、目を閉じる前、先生が電気を消しながら尋ねる。
「進路の紙みてないんスか」
「担任じゃねーから見れねぇよ、お前の担任のインテリメガネに見せてくれって頼むのもあやしーだろ」
 カチカチと時計の音がする。一秒一秒すべてが取り戻すことのできない過去へと変わる合図は、心臓の音のリズムと似ている。カチカチ、ドキドキ。明日も今日と同じように訪れてそれをまた生きて、ずっと、ずっと続いていく。そういうことを思えば思うほど全部投げ出したくなるんだ。いつだって報われない悔悟はするのに先にはなにもみつけられないんだ。先生もきっとそうなんだと思う。そして先生は私にだってなんにも期待なんかしていない。
 ぎゅっと目を瞑った。
 愛することと、愛しあえることは、肉薄しながらも限りなくとおい。
「先生のお嫁さんになろうかな」
「そりゃいいなァ、そうしちゃえよ」
 雪みたいに軽くてすぐに溶け出すような温度の言葉を合図に、私が先生のほうの布団に入り込むと、大人の男の人の手が寝巻きの合間を縫って素肌に触れる。その手はやっぱり冷たくて、背筋がぶるりと震えた。頭を先生の首元にこすり付けて、膨らみを撫ぜられると、唇から熱がもれて。胸を弄るのに飽きた指先が私の体の深いところを目指す。もっともっと深いところにきて、みんなかき回してよ。