へぇ、そんな顔もするの。
 
 なんて。つい珍しいものを見つけて立ち止まり、しまったと思った時にはすでに遅く、目が合った。時限爆弾を内蔵した不穏そのものの生き物はにこりと微笑んだ。表情もそれを作る顔立ちも一切の不備なく柔和だが、いつ暴発するかわからない武器に触れたがる人間なんかいない。これはろくなことにならない。通常ならば相反するべき本能と理性が同意見を叩きだしたので、また子が足早に立ち去ろうとすれば、軽い動きで先回りされて前をふさがれた。たとえ徒労になろうと踵を返すべきだったと、また子はこれ見よがしに舌打ちする。
「無視するなんて酷いじゃないか」
「…なんか用っスか」
「用があったのは君の方じゃないの?」
「ない。さよなら。」
 別れの挨拶という最大級の義理を発揮してやったというのに神威が退く様子は微塵もない。にこにこと胡散臭い笑顔を張り付けて先ほどまで見つめていたものを指し示す。明日一日のために用意された浮かれたオブジェ。それよりも、丸く短い爪に意識が向いてしまう。
「短冊見てたんだ。見てるだけでも面白いよ。『シュークリームになりたいです』とかなかなか哲学的じゃない?来島サンもなにかお願いしなよ。」
 短冊を書くための机へ誘導するように掴まれた腕を、強く振り払う。また子の攻撃的な拒絶にも、神威は笑みを崩さない。
「別に願い事なんてない」
「『晋助先輩とあの女が別れますように』とか」
 息をのんだり、憎しみをこめて睥睨したり、眉を顰めたり、そういう素振りをひとつもしなかったことは僥倖だ。自尊心とはかくあるべし。また子は揺れる笹の葉とくすんだ色紙を見つめながら静かに、口を開く。
「『あんたが早くくたばりますように』」
 ケタケタと無邪気に神威は笑い声をあげた。
「いいね。俺をくたばらせられるようなやつに俺も早く会いたいよ。」
 それが自殺願望なのだとしたら最高に面白いのだが、根本からして違うのでまた子の溜飲は下がらない。恨めしい気持ちで、色とりどりの紙と、そこに書かれた願いを見続ける。
 何かお願いしなよ。神威の言葉を反芻する。唾でも吐きたい気分だった。
 あれが欲しい、これが欲しい、こんなことができたらいい、外見だってもっと、いや、内面だって、自分じゃないものになりたい。入れた先から抜けていくような空虚感を埋め合わせるように、肝心なことは考えないように。それから、それから、と繰り返しながら
(世界中の人間の願いが叶いませんように、)
 ふっと暗い場所から這い出たその呪いの言葉は自己嫌悪するには十分な力があった。
 幸せとは毒の起爆剤だ。他人の中の見えない毒の入った瓶の蓋をあけて、充満させる。悪意などひとつもない、穢れのない純粋な、暴力。そんな風に自己憐憫に浸れる己の醜悪さが鼻につき、いっとう反吐が出る。
 それでも彼の隣を歩くよりも、よっぽど、よっぽど、願いとしては現実味がある気がしてしまうのだ。
「ねぇ」
 思考を引き裂くように、ぬっと顔を覗き込まれた。あざやかな髪色とビー玉みたいな瞳、生白い肌。作り物の合いの子みたいな姿。思わず身体を退くまた子に、神威は薄っぺらい鞄を押し付けて
「ちょっと待ってて。動いちゃ駄目だよ。これ、預けるから。勝手に帰ったら殺すよ?」
 そして、近くの100円ショップに入っていった。捨てて逃げても構わないと思ったが、いつだって突拍子のない神威の思考回路は興味深くもある。辟易、唾棄するような嫌悪感、その反面痛快。しかし好奇心は猫を殺すということも、また子は当然理解している。それでも動かなかったのは、自身への憐憫を引きはがしきれないからだろう。自傷の快楽など容易い。
 戻った神威の手にあったものは、白いビニール袋と黄色い容器だった。おまたせ、と笑うと、中身を笹に浴びせかけた。掴んだ手のひらに覆われて容器の表面は見えない。しかし届いた臭気にまた子はその正体を察した。咎める前に、まるで制する様に神威がまた子を見た。俺タバコ吸わないからさあ。そう言うと、袋からライターを取り出して短冊に火をつけ、たくさんの短冊がつるされた笹に投げ込んだ。炎は一瞬でわあと高く広がる。周囲の悲鳴とざわめきも同じように。それを見届ける間もなく、強く腕を引かれて、神威に引きずられるように走り出す。今度は振り払う余裕もなく。

「あんた、やっぱり、頭おかしい」
「そう?」
 小首を傾げて、心底不思議だという表情。そこに常識の文字はみつからない。
 5分ほど走り続けて、神威と中規模の公園にたどり着いた。息一つ乱さずに、喉が渇いたね、なんて、のんきにいいながら、自販機を見ている。
「七夕って、当日に燃やして、それで願いを叶えるんだって」
 常識も持ちえないくせに、そんなどうでもよい雑学は知っているのかという皮肉な驚きをどう表現してやったものか。しかしこの男には皮肉だろうと羨望だろうと何一つとして通じる気がしない。
「一日早く燃やしちゃったからきっと願い事ぜーんぶ叶わないだろうなあ」
 静かな青い瞳で短冊を見つめていたその横顔を思い出す。笑みを一切消した、寂寥さえ感じるような。神威という生き物の、裏側を想像したことなどなかった。興味もなかったし、神威の一辺倒な笑みや絶望的な暴力がそれをさせなかった。そして、今も、続きを打ち消すように、ガコン、と金属的な音。
「…あんたはなにお願いしたの」
「来島サンが幸せになれますように、って。」
 取り出した缶ジュースをこちらに投げて、神威が笑う。くたばれと言った時よりもよっぽどくだらないとばかりに。ああその通り、まったく白々しくどうしようもなく馬鹿馬鹿しい。神威につられるように、また子も笑ってしまう。受け取った飲料の冷たさが手のひらの温度を下げてゆく。気温差で缶ににじむ汗の不快さ。何一つとして通じる気がしない、というのは間違いだったようだ。世界中の人間の願いが叶いませんように。きっと二人、同じ顔をしていただろう。
「じゃあその願いも叶わないっスね」
「そうだね」
  初めは小さくできそこないの笑い声は連なりやがて大きく形を変えてゆく。潰えない願いも安易な祈りもすべてが、燃えあがる呪詛のようだった。かみさまのかわりに俺が叶えてあげるよ、という子どもみたいな戯言もひとしく。