雨の降る日にたったひとりで彼は現れた。
「今日は、お祝いにきたんだ」
 お祝い事にはケーキでしょ、と、やけに大きな手土産を掲げ、小首を傾げる幼子のような仕草は青年にしてはやけに馴染んでいる。
 体調が芳しくない。布団の上で寝巻のまま、手櫛で髪を整えたまた子が直接的にそう伝えたが、寝室にずかずかと上がり込んできた神威には当然、通じなかった。平生通り形ばかりの笑顔のまま、やはり形ばかりの労いの言葉かけると、我が物顔で畳の上に座り込み、そして先ほどの台詞。
 お祝い、と、胸中で言葉を反芻させながら、また子は手土産をみつめる。この場所は限られた人間しか知らないはずだった。
「高杉に聞いたんだよ?」
 また子の思考を先読みしたような言葉。それを前にしてこれ以上抵抗する術を持てないことを、神威はよく知っているのだろう。


 食を辞するが、神威は箱から出したケーキを戻しはせずに小さな蝋燭を袋から取り出すと、生クリームとスポンジの土台に突き立て火を灯した。申し訳程度の装飾が付いた簡素なプレートがクリームの上に乗ってはいるものの、そこには何の名前もない。
「はーぴばーすでー」
 ぱちんぱちんと拙い手拍子を打って幼い調子でうたう神威にまた子は柔い嘆息を零した。
「お祝いの種類が違うんじゃないっスか、気が早いっていうか…」
「そう?いいんだよ、これで。ほら、消して。」
 大きなケーキを押し付けられて、仕方なく、ゆっくりと息を吸い込んで、吹き消す。それを見届けた後、神威はケーキを自ら切り分けると、円の一部であったそれを手づかみで食べ始めた。生クリームに濡れたナイフが光るのを見て、ほんの少し、胃からせりあがる気配がした。せっかく足を運んでくれたところに申し訳ないが、やはり帰ってもらおうかとまた子が口を開こうとすると、神威のほうが先手を打つ。
「俺はね、女と子どもは殺さないってずっと決めてた。だから妹のことも殺さなかった。ちょっとした過失で動物を殺したぐらいでわんわん泣き喚くような弱虫、それこそ文字通り虫唾が走るぐらい大嫌いだったけどね。今はちょっとはマシになったみたいだけど、それでもやっぱり嫌いだよ。肉親ってだけで愛せる理由にはならないだろ。あいつがただ生まれたってだけの理由じゃ夜兎の血を愛さないように。あ、こういう話ってよくないのかな?タイキョウってやつに。」
 クリームの付いた指先を舌で拭う。いくつかの生命を暴力で潰した神威が、同じしぐさで血を拭ったのをまた子は見たことがある。
 黙ったままのまた子に、触らせて、と甘えるような声音でいうが早いか了承など待ちもせずに神威は勝手に触れる。とはいっても、まださして膨らんでもいない腹だ。何が楽しいのか、神威はにこにことまた子の腹部を撫ぜ続ける。命を奪うことにしか興味がなさそうな青年のてのひらを不思議な心地で見下ろした。
「でもさ、最近思うんだ。俺、間違えてたかもって。」
伏し目がちに、堅く閉ざされた岩壁からその破片がぽろりと崩れるような具合で神威が呟く。
「…その妹と、和解する気になったんスか」
 ようやく、言葉を見つけたまた子を、神威が捉えた。きょとんと開かれた快晴の色の瞳。それがにんまりと細められる。瞳の中の美しい青空はどこまでも続いて行きそうで、そしていつだって澄み切っている。例えば、気味が悪いほどに。
 瞳の怖気を引き連れるように神威はけらけらと笑い出した。てのひらがが腹部から離れたときには、それもぴたりと止まった。ざぁと雨の音が大きくなって、雷鳴を孕む雲のような嫌な気配にまた子の全身に力が籠る。
「違うよ。全然違う。間違えてたっていうのは、場合によりけりってものがあるなってこと。理由だってちゃんとあるんだ。まあ、それは今はいいよ。ただ、君の場合は、俺のルールの中でも場合によりけりってやつだってことだけ知ってれば。」
 布団の下に隠した銃を引き抜こうと動いたまた子よりも神威の方が圧倒的に早い。肩が抜けるのではないかという力で腕を捉まれ、また子は布団に引き戻され上から押さえつけられた。
 次は、手を伸ばして、先ほどケーキを切り分けたナイフを掴む。馬乗りになった神威に突き立てたナイフはかわされたものの、避けるために神威の身体が離れたその隙に体制を整えて駆け出した。逃げられるわけがない。だが、逃げなければならない。なんとしてでも。その決意だけで動き出した身体はふわりと浮いて、あっけなく壁に叩きつけられた。腹を抱えて守る体勢をとったまた子に、神威が歩み寄る。薄影が、ゆっくりとまた子を覆った。
「さっきのは嘘。あなたが居なくなった理由は人から聞いた。それで、ようやく分かった。高杉もなんだか腑抜けちゃって、嫌になるね。どうしてみんな、変化に気づかないのか理解できない。てんで鈍ってる。だからさ、良くないんだよ。一生ついて回る呪いと変わらない。俺だってほら、そういうものなんだろうしさ。」
「あんたなんかと一緒に…っ!」
 言い終わらぬうちに、神威がまた子の首を掴んだ。片腕で易々と、その身体を持ち上げる。
「そうだよ、俺なんかとは違う。同じものだけど、全然違う。だから駄目なんだ。なんで分からないのかな。」
 苦しげな表情の中、理解できないという色を湛えたまた子に、神威は困ったように微笑む。傷つけているのは間違いなく神威自身だというのに、それよりもよっぽど傷を負ったというような力ない色だった。だが、その表情が浮上したのも一瞬のことで、すぐになりを潜めると、平生の超然とした笑みに戻った。締めた首筋に噛みつかんとばかりに端整な顔を寄せ、囁く。
「勘違いするなよ、同属殺し。今まで散々他人のものを奪い続けてきたんだ。少なくとも俺たちは同じはずじゃないか。今更『そういう』道を選ぼうなんて、気持ち悪いんだよ。」
 今この瞬間から未来に渡って凍りつかせるような冷たい声だった。ずっとずっと暗く深いところから、聞こえる。一片の光も差さない音の塊。憎しみが入り込む隙などない、何者にも侵しがたい強靭な力を持っているはずの青年が、確かに今それを露にしていることが不穏な恐ろしさと底の見えない悲しみを連れてくる。
 もう一度、そっと、てのひらが腹部に触れた。それはとても穏やかで、何かを確かめるように、なぞる。
 瞳はやはり青空の色。何処までも続いてゆきそうで、いつだって澄み切っている。けれど雨の降らないその青空の元には、渇ききった大地が在るだろう。罅割れた先から永劫の死を迎えるように、星の見えない夜の帳よりも、暗く底冷えた摂理に絡めとられているだろう。また子の希望も抗いも懇願もなにひとつ、敵いはしない。

 足の間を夥しく染める血をてのひらで掬い上げ、色を無くした真白い頬に塗りつけた。鼻歌交じりに。曲は、勿論決まっている。軽やかに、中指がゆっくりと丁寧にまた子の下唇をなぞり、色付けていった。紅を差したような形に、神威は微笑む。満ち足りた、つよく、うつしい、微笑。
「よく似合う。やっぱりこっちのほうがいい。紅い色が、綺麗だよ。お祝いはあれであってるんだ。今日こうして生まれ直した君たちのお誕生日おめでとう。」
  虚ろに開かれた青緑の瞳は作り物のガラス玉のように暗く沈んでなにも映さない。ただ漠然とそこから零れ落ちた涙を、赤い色を付けた指が掬う。
 神威は力をなくした肢体をぎゅうときつく抱擁して、額を痣の残る首筋にこすりつけた。その姿はお気に入りのおもちゃを抱えるようでも、母に甘える子どものようでもある。血と雨の香りが二人を包容してゆく。その匂いを神威はずっと昔から知っている。とおい郷里の匂い。なつかしく、かなしく、いとおしく。
「高杉にも早く会いたいなぁ」
 薄闇の中、夢見る瞳が濡れたナイフのように恍惚に光って、そっと閉じられた。