深い呼気と一緒に、ただでさえ残量の少ない気力も一緒に身体の中から零れた気がしてまた子はとうとう机に突っ伏した。窓際一番後ろの特等席。頬と机にサンドイッチされた原稿用紙がぐしゃりとよれた気がしたけど、無視する。暖房はたった一人のためには稼働してくれないらしく一人ぼっちの教室は冬の寒さに馴染む一方だ。暖房が機能している可能性のある図書室には、今更向かうのも億劫で、もう帰りたいという欲望にしな垂れてしまいそうになる。
 だらりと身体を伏せ続けていても仕方がないので、机の横にひっかけた鞄から手の感触を頼りにのろのろと鏡を取り出した。髪の毛を耳にかけると現れる、赤い石のついたピアス。耳元で光るそれに気づいた子たちはみんな、似合っていると言ってくれたし、また子自身とてもよく似合っていると自負している。
 自然と唇がゆるんでしまって、その気持ちの勢いで起き上がった。そのほうがピアスだってもっとよく見える。昨日貰ったばかりで、我慢できずに付けてきてしまった。朝一緒に登校するとき、贈り主に見せると、彼は驚いた顔をして、没収されんなよ、と一言、また子の髪をぐしゃぐしゃと撫ぜた。きちんと結わいてきた髪の毛は残念なことになってしまったが、その照れ隠しも嬉しい。嬉しいついでに、贈り物を彼の手で付けてもらったあとにはじめて触れた唇のことも思い出してしまって、赤くなってしまう頬を手のひらで抑えた。冷えた手の温度が余計に自身の高揚を自覚させる。
 嬉しいやら恥ずかしいやらの感情に押されてなんだか元気が出てきた気がして、最後まで頑張るかー、と、なかなか元の形に戻らない唇をきゅっと締めてまた子は軽く寄れた原稿用紙の皺を伸ばした。
「また子」
 すっと背筋が伸びる。原稿用紙の皺よりよっぽどピンと。声の主はすぐに思い至った。慌てて教室の扉を見やると、高杉が気だるそうに立っている。心臓の音が、逸る。
「お前、一人かよ」
「っ、そうっス。ひとりっス!」
子どものように大きく返事をするまた子に、高杉は苦笑しながら近づく。
「読書感想文?休み中にやらなかったのか?」
「ちゃんとやったんスけど…でも、枚数間違えてて…足りないから、やりなおしてるんス」
 確認しろよなあ、と呆れよりは面白がるような声が返ってきて、また子はとたんに気恥ずかしくなる。高杉は、また子の前の席の椅子を引いて腰かけると、机の上に置かれた読書感想文用の課題図書をぺらぺらとめくった。ちょっとした挨拶のようなものが終わればすぐに帰ると思っていたので、その行動をまた子は意外に思う。高杉が能動的にまた子に接触することはあまりない。いつだってまた子が追いかけていた。だから、この行動も気まぐれのひとつなのだろうと、自分を納得させる。
 去年の冬休みは一緒に勉強がしたいと頼み込んで、一人暮らしの高杉の部屋で二人きりで宿題を片付けた。「勉強」や「宿題」など建前で、学校で会えない分を補いたかっただけなのに、まさか、もっともプライベートな自室に招いてくれるとは想像もしてなかった。最上級の嬉しさと緊張とほんの少しの期待を持って、部屋を訪れたが、当然、特別なことなんて起こらず、そして、今年は、新年のあいさつのメールを送ったぐらいで一日も会わなかった。
「あいつは?」
 曖昧な問いかけだったけれどすぐに誰のことかわかって、また子は曖昧に微笑む。上手に笑えてるといいと思う。
「…今日はバイトだから、先に帰ったっス」
 へぇ、と気のない返事。手にした本に気になるページがあったのか、手が止まって高杉の視線がそこに落ちる。また子は視線の向け場所に困って、しばらくうろうろと彷徨わせていたけれど、結局原稿用紙の上に収まった。半分以上が空白の、よれた紙。先ほどのやる気はどこへやら、今ではこんなものまったく埋まる気がしない。膝の上に乗せた手のひらは、落ち着かずに握ったり開いたりを繰り返している。
 冬休みに高杉と一度も会わなかったのは、また子に恋人ができたからだ。高杉ではない男。あれほど熱をあげていたのに、と周囲に言われると、何を裏切ったわけでもないのに、高杉に会いづらくなった。先輩のこと好きだったのは嘘じゃない、絶対嘘なんかじゃない、と胸中で何度も呟きながら、しかし口には出さなかった。口に出したらそれこそ嘘になる気がした。恋人は、高杉の昔馴染みだった。
「それ」
 高杉の手が頬に伸びて、指先がそっと掠めた。かぁ、とまた子の身体が熱を持つ。高杉に対しての恋愛感情はもうないけれど、彼に対する羨望や敬慕はまた子の心に根付いている。それに付随した恋心まがいのものを完全にほどくのには、まだ時間が足りない。
 高杉の骨ばった、しかし美しい形をした指は、そのまま、また子の耳に触れた。その指一本一本も、とても、好きだった。
「昨日、誕生日だったもんな。あいつにもらった?」
 覚えててくれてたんだ、と驚いた。歓喜よりも、そちらの感情の方が大きい。去年は、万斉や武市たちと一緒に祝って貰った。発起人が誰だかはわからなかったが、高杉ではないということだけは理解していた。
 高杉はいつだって猫のように気まぐれで、今だってただなんとなくピアスに触れているだけなのだろう。気まぐれ、そうだ、気まぐれだ。また子は幾度となく反芻する。
 近づくことを許してもらえないと思ったら急に傍に寄ってきたり。触れたり、突き放したり、期待させて、絶望させて。何度も、何度も。行きつくところのない迂遠ばかりで、どこかで諦めをつけようと期待を捨てれば、それを拾い上げてまた子に投げて寄越すのだ。また子を喜ばせることも悲しませることも高杉が世界で一番上手かった。また子の感情の機微さえすべて支配できるのではないかと思うぐらいに。
 もはや反射のように赤く染めあがる肌や心臓の鼓動は、今更期待もないとはいえ、ここには居ない恋人への誠意に欠ける気がしてまた子は自然にほんの少しだけ身をよじった。そうすれば、聡明な高杉のことだから察してくれるだろうと考えたのだ。
 身じろぎした瞬間、ピリッと痛みが走って、反射的に耳を押さえる。その時には高杉の手は離れていた。突然襲った、小さく、けれど鋭い痛み。けれど、それよりも指が触れた場所にあるはずの硬い感触がみつからないことのほうがまた子を怯えさせる。古い金属が軋むような音と、訪れた冷たさにはっと顔をあげると、高杉は壁にもたれながら開いた窓の外へ手を伸ばしていた。摘まんだ指先に赤く光るものがある。その正体に気づいてもまだ、また子は高杉が悪ふざけをしているのだと、思っていた。そう思いたかった。高杉の猫のような気まぐれには、人を玩弄して楽しむ、悪魔じみたものが内包されているとよく知っていたのに。
 高杉の瞳はまた子を真っ直ぐ射抜いて、口元は弧を描く。黒髪の間から覗いた瞳は楽しそうで。けれど、一瞬、いままでみたことのない彩が走ったような気がして、また子は本能的に椅子から立ち上がった。それと同時に、あっけなく指は開かれて、赤い石は重力に忠実に落ちて行く。また子は急いで窓から身を乗り出して軌跡を追ってみたけれど、落下速度の方がよっぽど早い。もうどこにも小さなピアスは見えなかった。
「似合わねェよ」
 冷たい声音に、びくっと肩が震えた。恐る恐る見やると、冷たさを投げたのはここにはいない別の誰かだったのではないかと思ってしまうぐらい、高杉はなんのこともないように、笑っている。眠い目をこすりながら朝早くに作ったお弁当を食べてくれたときの、一緒に帰りたくて教室の前で待っていたまた子を見つけた時の、そういうものと、なにも変わらない笑み。
「俺が選んでやるよ、お前に一番似合うやつ」
 再び手が伸ばされる。今度の声音は穏やかで、優しい。また子は茫然と立ちすくんでいたけれど、ちらと赤い光が頭の中を過って、指先が頬に触れるその前に振り払った。振り払われた手のひらは、行く場所をなくて空に留まっていたが、やがてゆっくりと落とされた。また子が表層的に高杉を拒絶したのは、初めてのことだった。
「どうして…」
 零れ落ちたのはそんな単調な言葉。息が苦しくて、それ以上は続けられない。頭の中がぐちゃぐちゃして心臓の音が耳鳴りのようだった。先ほどまでの鼓動とは全く別のもの。恐れの予感を引き連れたその音に合わせて、世界がぐらぐらと揺れる。
「『どうして』?」
 高杉はまた子の疑問を繰り返して愉悦を噛みしめるように笑う。
 とん、と肩を押されて、自分でも驚くぐらい簡単にまた子はバランスを崩した。力の抜けた身体と机がぶつかって、静かな教室で嫌な音を立てる。
 早くピアスを探しに行かなくちゃ。そう思うのに、動けない。身体の芯から震えが広がっていく。高杉が顔を覗き込む気配がした。その目をみたらあのピアスみたいにどうにもならないところまで落とされそうで深く俯いて顔をそむける。けれど、ぐっと顎を掴まれて力づくで顔をあげさせられた。逃げたい、でも逃げられない。そこにある端正な顔にはめ込まれた眼は、やはりどうしようもなくまた子の力を奪っていく。
 こんなことは初めてのことなのに、以前からずっとあったことのように感じた。ずっとこうされていたような気がする。それ以上、考えるなと、なにかが言う。同じように、思い出せとなにかが言う。なにかとは、たぶん、
「お前は俺のものだろ?」
 高杉の唇がまた子のもういっぽうの耳に触れて、また痛みが走った。やめて、と囁くようなか細い言葉の零れた唇は塞がれる。舌と一緒に入り込んだ異物。それの正体なんかわかりきっている。高杉の舌がまた子の舌を絡め取るたびに、ピアスも一緒に弄られる。冷たいそれが、二つの舌の熱に馴染んでいく恐怖に震え、暗い瞳に突き落とされたまま、身動き一つ取れない。離れた唇からは、愛しているよ、と底のない言葉が紡がれる。瞳と同じく真っ暗で、どこまでも深い、支配と征服の言葉だ。