いっそのこと、逃げなければいいのではないか、逆に。
 そんなまったく魅力的でない考えも浮かばなくはないが、かといって逃げないわけにはいかないのだ。絶対に。もし判断を間違えれば、自分は死ぬだろう。したがってまた子は決断を先延ばし、とにかく逃げまわるのに必死だった。
 そして、気が付いたらL字の壁の隅に追い詰められていた。
 いや、追い詰められていたという表現は正しくない。問題の追手はきっとただ本能的にあとを着いてきただけなのだ。逃げるから、追う。また子を追い詰めたのはこの道を選んだまた子自身である。
 後ろには壁、左側にも壁。壁には懸垂の要領で飛べば入れそうな窓があるものの、内側からカギかかかっているらしくびくともしない。
 そして何もない右側と目の前のちょうど中間ぐらいに鎮座する白い猛獣。その脇を通って逃げることは、とてもじゃないができない。逃げ場なし。絶体絶命。汗腺が故障したようにだらだらと冷や汗が溢れてくるのを感じた。そんなまた子にお構いなく。猛獣は嬉しそうに「ワン」と鳴いた。

 来島また子は犬が嫌いである。
 生まれてこの方、この獣と関わってろくな目にあったことがない。物心ついたときにはご近所中の犬に吠えられていたし、小学校の遠足ではどこからか野良犬が現れまた子一人だけが執拗に追いかけまわされた。他にも、なにも危害を加えたりなどしていないのに散歩中の犬に噛み付かれたり、お気に入りのワンピースを鋭い牙で引っ張られたり。なかでも中学での体育の授業中にやはりどこからか野良犬がグランドに入り込み、甦る過去の記憶と恐怖から硬直したまた子に飛び掛かって押し倒すと股ぐらに鼻先を押し付け、必死に逃げようと四つん這いになればそっちのほうが具合がいいとばかりにへこへこと腰を押し付けられた出来事は最悪である。周囲のぽかんとした表情からの白い目、そして哀れなものに対する同情と侮蔑の混じった含み笑い。離れた場所で授業をしていた男子の、褒美を得た猿のように興奮して囃し立てる声。それらはまた子の心に大きな傷跡を残した。次の日からまた子のあだ名は思春期の女子には到底耐えられないような陰惨なものになったが、見せしめに3人ほど気が済むまで殴ってやったところ、その返り血を由来に「紅い弾丸」というちょっとかっこいいあだ名に変わったのは不幸中の幸いである。
 兎にも角にもそういう様々な積み重ねがあり来島また子は犬が嫌いなのだ。

 目が合うと何かしらのアクションを起こされそうなので、深い闇のような瞳はなるべく見ないようにしながらまた子は恐る恐る様子をうかがう。白い毛並みはなかなか美しくふわふわでさわり心地もよさそうだ。身を委ねたら気持ちが良いだろう。ただしこれが吠えたり噛んだり意思疎通の難しい生きものではなく絨毯であった場合の話であるが。
 なによりこの犬、ものすごく大きい。初めて見た時、また子は気が遠くなり、あわや卒倒という事態であった。クラスの留学生やメガネがこの犬を可愛がっていることは知っているが、また子にしてみれば正気ではない。こんな巨大な獣に飛びつかれたら有無を言わさず地面へ直下だろうし、あの一見笑っているように見える口なんて人の頭がまるまる入りそうではないか。どうしてそんなにお口が大きいの?それはね、お前を丸のみするためさー!ってなもんである。
 このまま飛び掛かられて丸呑みにされたらどうしよう考え、その想像に今度はサァと血の気が引いていった。また子はふるふるとかぶりを振って、弱気を吹き飛ばし、実践は度胸!とくじけそうな心を奮い立たせる。
 なにかこの絶体絶命の危機を乗りきる手はないものかと、突破口を探すように周囲を見渡し(決して犬とは視線を合わせないようにしながら)、ポケットを漁る。右側には携帯電話が入っている。左側には、
「…チョコ」
 また子の手のひらにはたまに登校途中、朝ごはん代わりに食べるチョコが一つ。いつも4つぐらいポケットに入れておくのだが、今朝は3つしか食べなかったから、1つ残っていたのだ。
「ワン!」
 びくん、とまた子は飛び上る。突然の鳴き声にあわあわと焦りついうっかり目線を合わせてしまってさらに焦りと、パニックのスパイラルに陥ったまた子は慌てて、ぽい、と犬の背後めがけてチョコを投げた。
「ほら!」
 きっとこのチョコが欲しいに違いない。だからこその「ワン!」だろう。「そのチョコちょうだい!」ということだろう。チョコに夢中になっているうちに矢のごとく、いや弾丸のごとく走って逃げる算段でまた子は身構えた。
 だというのに、犬ときたら至極揺るがない。まったくの無視、悲しいぐらいに興味ゼロ。ハッハッと短く息を弾ませて、また子を見ている。
 また子が絶望するよりも早く、突然。がらりと後ろの窓が開く音。振り返ると、
「今この辺に甘いもんなげられなかった?」
 気だるげな瞳。天然パーマの白髪頭。細いフレームのメガネにお決まりの白衣。
「いや、お前かよ!」
 全力でまた子は叫んだ。そこに居たのは確認するまでもなく、担任の坂田銀八である。犬は銀八に向かって「ワン!」と嬉しそうに鳴いた。反射的にまた子の肩がびくっと震えるが、どうやら銀八は気づかなかったらしい。この担任も、犬の世話をしているひとりだった。どちらかといえば、子どもが世話をしなくなった動物の世話をするお母さん的なポジションで。
 犬も普段世話をしてくれる人間が現れて嬉しいのか、その尻尾はこのままタケコプターのように空を自由に飛べるのでは?と皮肉に思うぐらいぶんぶんと勢いよく振られている。
 銀八は「よぉ、定春」と気だるげに返事をした後、また子に視線を移した。
「お前授業どしたの」
「それは、その、腹痛で…」
 今は3時限目の最中。ごもっともな質問にもごもごと言いよどむまた子に銀八は眉根を顰め、ぽつりと呟いた。
「そうか、毎月毎月血垂れ流して、大変だよな女子は…」
「直球すぎるわ!なにそのわかってますから感!どうあがいてもセクハラっスよ!」
「嘘つき相手にセクハラもなにもねーよ。どーせ高杉が授業でねーから自分もでないとかそんなんだろ。」
 図星をつかれてまた子は言い返せない。今日は高杉が欠席で、全く退屈だったのだ。興味のない授業だったのでさっさとサボタージュして部室で寝ようと思っていたところ、定春と出くわしこのような事態となってしまった。因果応報と言われれば、否定できない。
 はー、と嘆息しながら銀八は続ける。
「あのな、お前たちがいくらサボって留年しよーとなんだろうと勝手にすりゃいいけどよ、俺の評価ひいては給料が下がるだろうが。」
 そんなに評価を気にするのならば生徒のサボり云々よりもまず自分の普段の行いを省みたらどうだ、と言いたいところだがこの際馬鹿でも鋏でも使いたいという気持ちで、また子は悪態をぐっと飲み込む。
「あの、先生、今から授業出るんで、だからこの犬、どっかやって欲しいんスけど…」
「なに?犬怖ェの?」
  また子なりに下手に出てみるものの、早々に看破されてしまい、焦りを出さないように反論する。
「こんなでっかい犬、普通の人間は普通に危機感を覚えると思うっス」
 あくまでも『普通』を強調するまた子に銀八はにやにやと笑った。嫌な笑いである。どう考えても、悪い結果しか待っていないような。
「へー、怖いんだァ。不良なのに?不良のくせに犬こえーの?」
「っ別に怖くないけど、先生の言うことの方がこの犬もきくかなと思ったんス。全然怖くないっス。ただちょっと嫌な予感がするだけっス!」
 あくまでも『怖くない』ことを強調するまた子に銀八は楽しげに笑みを深めるばかりで、
「嫌な予感ねー。そうだなーひょっとしたら咬まれっかもなあ。俺もよく咬まれるし。お前確か神楽とよくくっだんねー喧嘩してんじゃん?パンツに染みがついてるんだっけ?」
「ついてない!!」
「ついてるかついてねーかは置いといて、御主人さまの敵は犬にとっても敵だからな。ぜってー咬まれるわ。間違いねーわ。」
「置いとくな!ついてないったらついてないっス!ってかそれってあんたも敵扱いされてるみたいっスけど!?」
「男は敷居を跨げば七人の敵ありって言うだろうが」
 ちらと窺えば定春は銀八とまた子の攻防に「くわあ」と退屈そうにあくびなどをしていた。しかし、油断はできない。獣というものはいつ牙を剥くのかわからないのだから。だから一刻も早くここから立ち去らなければならないのだ。また子は決意を新たにし、大げさにいえば自分の生命に対する義務感に近い気持ちで、窓に向き直る。もちろん、定春に注意を張り巡らせることも忘れずに。
「そこどいて」
「は?」
「そこから教室戻るから、どいてくださいっス。近道っスよ。近道。」
「いやここ教員用男子トイレだけど」
「はあ!!?」
 思わず窓に身を乗り出すと、確かに男性トイレ独特の陶器が並んでいた。やめてよえっちー、などとくだらないことをいう教師はこのさい無視する。もうなんだっていいさっさとここから逃げ出そう。そう思うが、銀八が微妙に位置を移動し、窓枠を上ろうとするまた子の行く手を遮るのだ。どう考えてもわざとやっているとしか思えない行動に文句を言おうとするが、銀八のほうが早い。
「俺、そろそろ授業に戻んねーと。『なんか先生遅くなーい』『すっごい長いウンコしてんじゃん?』『やだー超ウンコマン』とか女子に陰口叩かれんのやだし。じゃーな。あ、手あぶねーぞ。」
 明らかに嫌がらせとして律儀に閉められゆく窓。それを勢いよく手で押さえつけ、また子はキッと銀八をにらむ。
「生徒が困ってるときに、なんとかするのが担任の務めじゃないんスか!普段ちゃらんぽらんなんだからこういう時ぐらい役に立つべきっス!せめて窓は開けてけ!」
「あ?しらねーよ。お前の好きなちょーかっけー晋助様にでも助けてもらえや。」
 小説一巻第四講の時よろしく一片の温かみもない声。これがりぼんで連載されている漫画の女子であったなら「先生、酷いっ」と言って泣き出したのかもしれないが、また子はといえばまったく別の衝撃を受けていた。
(その発想はなかった…!)
 欠席出席に関わらず高杉の手を煩わせるのはありえないので端から考慮外とはいえせめて万斉先輩に来てもらえれば…あとでお詫びになにか奢ればいいや、なんなら武市先輩でも似蔵でも構わない、と窓枠から手をはなし、素早くポケットから携帯を取り出した。が、その様子を見た銀八が舌打ちし、また子と同じぐらい素早く定春に声をかける。
「定春、こいつがお前と遊びてぇってよ。授業もサボって暇みてぇだし。」
 わん!と利口な返事が聞こえ、大きな影がまた子を覆った。ぞっと振り返ったまた子に掛る影。その影とは、逃げる暇もないほど至近距離の獣がのしかかろうとしている姿だ。
「うぎゃああああ!!!」
「色気のねぇ悲鳴」
 ぼそっと銀八が呟いたが、また子にはもう聞こえない。
 衝撃によって瞑っていた目を開くと、犬が目と鼻の先に居る。先ほどの絶叫ですべて出しきってしまったのか、これ以上の悲鳴が出せずにまた子は息をのむことしかできない。ごろりと仰向けの状態のまた子に、伸し掛かる定春。ばたばたと手を動かし携帯を探すが、押し倒された勢いでまた子の手の内からずいぶんと遠い場所へと離れてしまった。
「青姦たァ、情熱的だなあ定春」
 今日は天気が良くて雲がよくみえるなあ、というような口調でのたまう銀八を、また子は必死に見上げる。
「ばっ、馬鹿なこと言ってないでっ、なんとか、してっ」
「おー、任せろ。なんとかムービー撮ってやる。」
 携帯を取り出し本当に動画を取り始めたその姿に、血がめぐるように憤怒と憎しみがまた子の内側を満たし、わなわなと身体が震えた。その震えは決して犬への恐怖心からだけではない。また子は、某OPの高杉のように、カッと目を開くと、湧き上がる怨嗟の言葉をあますことなく絶叫した。
「馬鹿馬鹿!馬鹿教師!死ね!!むごたらしく死ね!地獄に落ちろ!変なウイルスに掛って死ぬこともできずに5年間孤独と罪の意識にさいなまれながら何ひとつ護れない己の無力を噛みしめて遠まわしな自殺しろ!!」
「あー、今の言葉の校内暴力で完全に俺の心ディストラクションだわ。そしてお前の内申もディストラクションだからな。」
 このクソ教師!内申などもうどうだっていいが、それを持ち出す性根が気に食わない。今すぐ携帯をぶんどってバッキバキにしてやりたい。その素晴らしいアイディアを叶えるためには、まずはこの犬をどうにかしなければ…と銀八への怒りによっていまなら恐怖さえも乗り越えられるのではという気持ちで伸し掛かる定春に向き直ると、
「ひゃぁ!」
 べろん、と頬を舐められて嫌悪と恐怖にまた子は総毛立つ。当然、気持ちは一気に萎えた。今までの人生で犬にもたらされた、ありとあらゆる不幸が走馬灯のように脳裏をかけてゆく。追いかけられたこと噛まれたこと吠えられたこと引きずられたことエトセトラエトセトラ。そんな地獄のメリーゴーランドが高速回転している間にも、定春はくんくんと探るように鼻先をあちこちに移動させる。その様子はまるで噛み付くのに最適な場所を探しているように思えてまた子の血の気はどんどん引いていった。まさに蒼白。
 目の前で「ワン!」と鳴かれると、意識も飛びそうだ。むしろ飛んでほしい。何故飛ばないのかと自分に怒りすら覚える。
「むり、むり…っ!」
 身体をねじって這って逃げようにも、中学での例のトラウマから躊躇ってしまう。なにしろ最悪なことに今は動画まで撮られているのだ。あの悪夢が再び起こり、さらに映像として残るだなんて、どう考えても耐えられない。
「うっ、あ、あっ、やだ…」
 呼吸がひきつり、定春の湿った鼻先が触れるたびにびくびくとまた子の身体が小さく痙攣する。怯えた瞳を隠せないまま縋るように銀八を見上げた。この男にだけは絶対に助けてなど貰いたくないが、しかし唯一助けの手を差し伸べる可能性を持っているのは銀八しかいない。もはや祈りに近いまた子の切望の視線を受けた銀八は、携帯の向こうでへらりと笑った。
「いつもツンケンして可愛げねーと思ってたけど、こうしてっとけっこーいい感じじゃん。かわいーぜまた子ちゃん。」
 嗜虐者の顔を隠そうともせずに平然と告げる銀八相手にもはや怒りすらわかない。圧倒的な絶望感がまた子に追い打ちをかける。とうに限界を超えた恐怖に、ぎゅうと目を閉じた。その顔をまたべろりと舐められる。
「も、やだ…っ、うっ、やっ、てば…ひっ、」
 絶対に泣くものかと耐えるものの、カチカチと音も聞こえるのではないかというぐらい歯の音も合わない。ただただ身体を強張らせた。熊に出会ったら死んだふりをしろというが、犬にも有効なのだろうかと考えているうちに首を甘噛みされ、皮膚に牙の感触を感じたらもう駄目だった。
「ぅぐ、うっ、うぅ、うぅぅーっ」
 ぼろり、と、堪えていた涙が一筋零れると堰を切ったようにまた子の瞳から次々と溢れだし、肩を振るわせて幼子のようにしゃくりあげる。「え、マジで?」と銀八の驚きと焦りの入り混じった呟きも耳に入らず、両手で顔を覆うと泣きじゃくった。
 泣き出したまた子に定春が困ったように、くーんと鳴き、慰めようとしているのか顔をまた子の覆った顔にすり寄せる。無論、また子はさらに震えあがり、まったくの逆効果だが。
「定春、もう遊ぶのはおしまい」
 遊んでいたのは定春というより銀八だが、この場においてそれを指摘する人間も咎める人間もいない。ツッコミする気力も咎める余裕もないまた子と、また子から距離を置き心配そうに見つめる犬一匹だけである。
 銀八は窓枠に足をかけ、ひょいと地面へおりると仰向けのまま泣きじゃくるまた子を抱き支えるようにして半身を起させた。
「む、むりって、っ、いったのにっ、いぬ、」
「うんうん。そうだよなあ、無理だよなあ。でかいし怖かったよな。これに懲りたら授業サボったりすんなよー。な?」
 ひっくひっくと嗚咽を上げるばかりのまた子から零れる涙を白衣の袖口で拭いてやる。銀八から見たまた子は変に真面目なところがあるものの普段から態度も物言いも刺々しく、高杉や一部の人間以外には退かぬ媚びぬ省みぬの三拍子だがこうしていればなかなかかわいいものである。変に強がっているところをつっつくのはどうにも愉しくてしかたがない。
 宥めるようによしよしと金糸を撫ぜながらそんなことを思っていると、3限終了のチャイムがなった。銀八は、あ、と思い出しす。
「あ、やべ、結局授業抜けたままだ」
 ようやくまた子が顔を上げる。高揚した頬、濡れて赤みを帯びた瞳。その中にもう怯えはない。色を取り戻した唇が、緩慢に開いた。
「トイレから戻らなかったあんたのあだ名は明日からすごいことになってるから精々覚悟するんスね」
「あーー、やっぱかわいくねぇー」
 鼻声で強がるまた子にそんなことを言いながら銀八は撮影した動画で、このあと滅茶苦茶おちょくった。

 が。携帯を持った腕ごと定春にかぷりとくわえられ、さらにもぐもぐとされ、ペッと吐き出された時には携帯はご臨終。動画どころかすべてのデータが消え残されたのは契約終了までのローンのみ。その残骸に打ちのめされた銀八とぽかんとしたまた子を残して定春は去って行った。
 これがまた子の人生に置いて唯一、犬に与えられた幸運である。