一国傾城篇よりも大昔に書いたものなので、そういう前提で読んでいただけますと幸いです。








 太陽の下、活気ある街を一人あてもなく歩くのも悪くない。当然派手なことはできないけれど、派手なことなどそうそう起こらないし起こす気もない。甘味処に立ち寄るのもいいし、髪飾りを眺めるのも好きだ。服だってなんだって、紙の上で見るよりも本物を間近でみたほうがずっと楽しい。何より武器も思想も持たない大勢の人間の中を歩くというのが新鮮だった。平和を選んだ人々はそれなりに楽しそうでそれなりに陰鬱そうでそれなりに幸せそうでそれなりに不幸そうで、それなりに一喜一憂。テロも攘夷も人殺しも、なんて遠いのだろう。なんとなく出そうになったため息は、どうにも目障りな天に伸びる大きな筒から視線をちらとそらした瞬間飲み込まれた。
 電気屋の店頭に並べられたテレビには破壊された蕎麦屋が映っていた。右上には「またまたまた真選組お騒がせ!」のおどろおどろしい赤い文字。蕎麦屋だと分かったのはテロップのおかげで、何もなければとても蕎麦屋には見えない。ただの黒い残骸だ。そして、くるりとテレビに背を向けると、テレビの中そのままに壊れた蕎麦屋らしき残骸がある。やはり、ただの黒い残骸だった。
「あぁ、向かいの店ね、指名手配犯が出たとかで壊されちゃったのよ。指名手配犯にじゃないよ、警察に。警察が平和を脅かしてどうすんだかねぇ。」
 なにかのきっかけを待っていたように、近くにいた青いはっぴをきた中年の店員が毒づく。髪の毛の後退具合をみると、もしかしたら店長なのかもしれないが。もう何度も同じ話をしているのか慣れた様子だ。他人の不幸話のわりに喜々としたものがないので不思議に思っていたら、飛んできた破片のとばっちりを受けて店頭に並べていたテレビが三台壊れたらしい。
 ほんと困った人たちですね、でも真選組なんてそのうちなくなると思いますよ。どうせここいつか一面焼け野原の予定だから。最後の一言は心の中で言いながら店員だか店長だかを慰め、世間話を前座にして勧められたヘアアイロンをやんわりと断ると電気屋を後にした。

 そんな風に街を散策して、その間私がどれほど大人しくしていようと不幸に遭遇することはある。例えば、人通りの少ない路地裏に落ちている猫の死体を前に立ち尽くしたり、とか。
 水色のプラスチック製らしきゴミ箱の横に、隠れるように蹲っている。寝ているのかと思ったが、足で小突いても動かないところをみると死んでいるらしい。はぁ、と嘆息して膝を折った。今日は普段と違う着物を着てきたので、いつもならば感じない帯の締め付けがすこし息苦しい。ついでに髪も結い上げているのでうなじの辺りがすーすーして落ち着かないのも気になるといえば気になる。
 猫に外傷はなく三色入り混じった毛並みは綺麗なものだ。猫は死ぬときは人目に付かないようにこっそり死ぬというから、その掟通りこっそり死んでしまったのかもしれない。赤い首輪が飼い猫だという事実を主張していてなんだか悲しい。家猫だろうと野良だろうと猫は猫だし死は死だが、飼い主が居るか居ないかではやはり違う気がした。ゴミ箱の横にほおって置くのもなんだか嫌な感じがしたので、どこかに埋めてやろうと持ち上げる。人の死体は慣れているくせに、猫の死骸には恐々としてしまう。硬くて冷たい死に触れる機会は多くない。死んだばかりの体は、みな一様に、温かい。


 こういう場合どこに埋めるべきか考えてみて、結局街から少し離れた神社に決めた。神さまの近くなのだから悪いことも起らないだろう。帰るときに賽銭でもしてよろしく言っておけばいい。私はみえない神さまになんてこれっぽっちも期待していないが、何事も気休めだし所詮は他人事だ。飼い主に弔ってもらうのが一番いいのだけれど、それは望みすぎだろう。
 亡骸を持って変な目で見られるのはあまり愉快なものではないので、なるだけ着物の裾で隠しながら歩いた。寝ているのかと訝るぐらいなので、傍から見たら大事な飼い猫をしっかり抱きかかえているようにしか見えないだろう。そう安心していたのに、次の角を曲がれば神社の階段というところで、ママ、ネコさん!と母親に手を引かれた子どもに叫ばれた。それも指差し付きの大サービス。触りたいなんて駄々をこねられたらたまらないので早足で逃げる。触らせてやるのは別に構わないけれど、母親の気持ちを考えると少し不憫だろう。
「ちょっと、そこのおじょーさん」
 親子から逃げ切れたと思ったら今度は背後から男の声。子どものような無邪気さが欠片もないので素直に腹が立った。くだらないキャッチセールスかナンパか。いかがわしいスカウトだったら最悪だ。どれにしても構う気はなかったので無視すると、肩を掴まれた。なんと図々しいことか。ひとけがなければ鉛玉を二三発、足に埋め込んでやるのにと、うんざりしながら振り返った、その瞬間。なんの心構えもしていなかった無防備な思考は一瞬間に火花が散って、心臓や流れる血液まで数秒止まった、気がした。すべてが復旧したときに、あわてて口元を引き締めた。間抜け面は心外だったが、あからさまな嫌悪や敵意のようなそういう表情が出てこなくて良かった。人間不意をつかれるとその手の悪感情はすぐには出てこないらしい。
 男は私ではなく猫に用があるようで、ごめんねの一言と共に腕の中の死んだ猫を覗きこむと、首輪の辺りを探っている。私はそんな男の様子を観察する。銀色の髪、赤い瞳、顔は、あの混乱の中、見えたのは一瞬だったけれど、忘れてない。忘れるわけもない。しろいおに。



 猫は今、男の手の中に居る。埋めたい場所があるという。拒む理由もないので渡した。自分のことを万事屋と名乗った男は、依頼で赤い首輪の飼い猫を探し回っていたという。そしてようやく見つけたときには猫は抜け殻になっていた。
 ややこしいことになる前に立ち去ろうとしたら、一緒に埋めに行かないのかとまるで当然のように声を掛けられてしまい、幾許の葛藤ののち、結局、陰気な好奇心に背中を押されて付いてきてしまった。私が埋めようと考えていた神社を通り抜けて、今は林の中の細い道を歩いている。勿論ひとけはない。死体を埋めるには良い場所だろう。動物も、人間も。
 男から数歩遅れて歩きながら、そっと、隠した銃を確かめる。冷たいそれは、この状況を芳しくないと主張しているみたいだった。今のうちに撃ち殺してしまえばいいのに、と私の本音を代弁する。
 私が白夜叉を殺してここに埋めたところで、きっとバレやしない。殺す理由はなかったが、殺さない理由もなかった。問題は殺せるかどうか、それだけだ。なのに、躊躇ってしまうのは返り討ちを恐れているわけではない。
 一度見たことがあるとはいえ長い時間ではなかったし、色んな人間が自分のイメージや他人から伝え聞いたそのままの感覚で白夜叉語りをするものだからその本人が目の前にいるのいうのは変な亡霊を見ているようだった。実際、万斉先輩は亡霊だと言っていた。他人の中の「白夜叉」という過去がこの男とは違う場所でひとりで歩いている。そしてみんなそれを見ている。見たいと思っている。ならば今生きているこの男は、白夜叉の残滓みたいなものだ。中身のないスカスカの抜け殻。いくら腕が立っても、誰よりも強くても、結局のところ、猫の死骸と同じ。それに似蔵は負けた。そして死んだ。あいつの墓は、どこにもない。
「飼い主に教えたほうがいいと思うんスけど」
 私の言葉に白夜叉はちらと視線を寄越す。先を促しているのだろうと判断して、続けた。
「飼い主だって一緒にお墓作りたいだろうし、そっちのほうが猫だって喜ぶだろうし。あんただって、ずっとお花とか供えられないでしょ」
「眼つき悪ィのに、結構優しーじゃん」
「常識的なことっスよ」
「いくら常識でも今どきの若い娘は死んだ猫なんて持たねェよ」
「三味線屋に売り飛ばそうと考えてたんスよ、三味線って猫の腸で出来てるんでしょ」
 万斉先輩から仕入れた知識から適当に答える。白夜叉はつんでれだかなんだか言っていたが意味が分からなかったので無視した。
「飼い主に報告っつっても、そっちのほうが先に死んじまったからな」
 声音は穏やかだった。語られた事実に驚きはしたけれど、不幸な死を迎えたわけでないことはなんとなく分かった。誰かに未来を奪われたわけでもなく、安穏に迎えた終焉だったのだろう。
「依頼に来たのが2週間ぐらい前で、4日前に逝っちまったよ。家族も友だちもみんな先に死んで、この猫しか居なかったんだと。こいつもなんでまたそういう大事なときに居なくなるかね。案外、自分が死ぬから出てったんじゃなくて飼い主が死ぬのを見たくなかっただけかもな。」
 この先に飼い主の墓があるからそこに埋めに行くのだという。依頼主が死んだというのに、猫を探し続ける男に義理堅さよりも嫌な執着を感じてしまう。パズルのピースが一つでも埋まっていないと許せないとでもいうような。この場合パズルは完成された幸福というやつだ。そしてそのパズルは他人のものでなければいけない。ほおって置くのも後味が悪いという気持ちは分かるが、それでもなんだか違和感を感じる。理論的に組み立てて分かることではなく、たぶん本能的に、そう思うのだろう。私はこの男のことをなにも知らないのだからなおさら。それに元々良い印象があるわけでもない。
「そういうやつって居るよな。諦め悪ィつーか、不器用つーか。本人的には逃げてねェつもりなんだろうけど。挙句の果てに悪足掻き。しょうがねーよな、ほんと。しかも、頑固だからさあ、人の話全然きかねェし。ぶれないってのも考えものだと俺は思うけどね。出口のないもんに折り合いつけなきゃ、同じとこぐるぐる回ってバターになって、ホットケーキに塗られて胃袋直行だ。」
「あんた何が言いたいんスか」
 白夜叉が振り返り、私を見る。隠れた銃がまた囁く。より強く、より鋭く。
「あいつが死んだらさ、あの人の隣に埋めてやってよ」
 聞き分けのない子どもに向けるような慈悲の浮かんだ赤い瞳。背筋が粟立つ。これ以上ない、嫌悪感。その眼が見ているのは突き詰めれば私ではないのだろうけど、それが余計に憤怒を猛らせた。男の話の中で出てきたバターが私の中で溶けもせずにぐるぐる回り続けている。私がこの男の過去の気配に感づいたということは、男が私の素性を察してもおかしなことではなかった。
「ま、あそこは形だけで、実際骨もなにもねぇけど」
「晋助様は死なない、私が死なせない」
 白夜叉は苦く笑った。馬鹿馬鹿しいと、思っているのかもしれない。憐憫のようにも見えた。私の卑屈な部分がそう見せているのかもしれない。素早く銃を一つ取り出して、銃口を向ける。似蔵の、目障りだという言葉だけは、私も同意見だった。踏み込めないとは、なんと歯痒く、惨めなことなのだろう。私達は彼に近づきたいと願うほどその苦痛を味わう。痛みを咀嚼して、血肉にせども、もっとも渇望してやまないものには届かない。それを目の前の男はただ私たちより早くに彼と出会っていた、たったそれだけの理由で持っている、持て余している。
 白夜叉は私の凶器に動じる様子もなく、腰の木刀を取る素振りどころか重心を動かしもしない。死んだ猫を抱いて私を見ている。私の中の、彼を窺っている。
「その猫のこと、全部嘘なんスか」
「いや、全部本当。お前と会ったのもたまたまだよ。」
 言葉の真偽を見透かすことはできなかった。無気力で誤魔化した瞳の奥にある感情が、私の心を侵す。些細な傷がじくじくと膿んでいく。
 ほんの少し困ったような苦笑は、私が、あるいは私たちが希望とするものを、その先の未来を否定するものだった。そんなもの、あからさまな侮蔑のほうがよっぽどましではないか。
 あの赤を潰したい。こんなものがこの世界に存在するなんて許せない。あの人のための紅い色は私だけでいい。銃が囁く。私は肯く。なのに、肝心の指先を、卑しい理性が凍らせる。この引き金の先にあるものは、耐え難い絶望だと、知っていた。
「撃たねェの?」
「撃ったら…」
 彼はどうするだろう。笑うだろうか。ネズミを捕ってきた猫にするように、頭を撫ぜるだろうか。いいや。彼が何をどう感じたところで少なくとも私にその素振りは見せやしないだろう。顔にも口にも出さず、彼とこの男しか知らない深い場所でお終いにするのだ。それが無性に悔しくて、その衝動をとどめに銃の囁きをなぞりそうになるけれど。変えようのない人の心というものまで撃ち殺すことはできないと知っていたから、かすかに震える指先とともに銃を下ろした。銃口を地面に向けた途端、なんだか急に、持ちなれたはずのそれが酷く重く感じた。この鉄の道具はもっとも重要なときにはなんの力も持たない。
「今撃ったら猫が飼い主の近くに行けないから、撃たない」
「ふーん、優しいじゃん」
 言葉に皮肉を感じさせなかったことがことさら自尊心を抉った。ぐっと歯噛みして、早く埋めに行けばいい、と呻くように吐き捨てた。
「一緒にこねェの?」
 やけに穏やかな口調に唾でも吐きたいところを堪えて、今度は何も答えずに、銃を仕舞って踵を返した。白夜叉は引き止めない。このまま何もかも振り切りたくて、駆け出す。私は猫の飼い主の眠る場所を知らない。白夜叉の言う「あの人」の場所も知らない。知ることは容易だけれど、知ったところで不毛な自己憐憫を増やすだけだ。
 埋めてやってほしいといいながら、きっとあの男は奪い去るだろう。それがどんなに残酷なことか知っていて、仕方がないと苦笑しながら、そのくせ絶対に離さないのだろう。そして私は、あの猫みたいに、逃げ出すかもしれない。思い浮かべた未来は現実味がありすぎて、歪なそれに触れた途端視界までも歪んだ。なによりその未来に一歩でも踏み込んでしまえば、加速を食い止めることは、私にはできないだろう。どっと圧し掛かる無力感。脚から、いや身体から力が抜けて歩くことさえできなくなる。だんだんと足が鈍くなり、よろよろと、惨めに樹に寄りかかった。考えるな、飲み込まれるな。振り払って、立ち上がって、走れ、走れ。真直ぐに。迷いのない弾丸のように。いつだってそうしてきた。そうやって生きようとしなければ、何一つ耐えられない。それなのに、裏切るように、全身は鉛のように重くなって、地面に吸い寄せられるように蹲った。身体から鉄錆びのかおりまでしそうだ。先ほどの白夜叉の眼差しと猫の死んだ体温を思い起こすともう駄目だった。

 一緒に葬りに行けるわけがない。あの赤い眼に映る途方もない哀しみと慈しむような同情、二つをくるむ悔悟。それらはいやおうにも、猫の亡骸に彼の姿を投影させるだろう。そんな悪趣味な葬式ごっこまっぴらだ。気味が悪い。あの男は耐え難い亡霊だ。可哀想で、滑稽すぎて、笑えない。涙も出ない。