森の近くにぽつんと建った家に、私とおとうさんとおかあさんの3人で暮らしています。街には少し遠いけれど静かでいいところだとおとうさんは言います。昔はおばあさんも住んでいたけれど、今は居ません。森の中にひとりで住んでします。おばあさんはお裁縫が得意で、私に赤い頭巾を作ってくれました。頭をすっぽり覆える、大きな頭巾。おかあさんは街に行くときには必ず被るように言います。とても似合っているわ、目立つから迷子になってもすぐに見つけられるもの。そういって頭巾を被せてくれるおかあさんも抱きかかえて頬を寄せてくれるおとうさんも私はとても大好きです。 「病気のおばあさんのお見舞いに行って頂戴。ここをずぅっと、真直ぐ、行くの。そうしたらおばあさんのお家が見えてくるわ。おばあさんに会うまでここに帰って来ちゃ駄目よ。よろしくね。」 雲ひとつない青空の日に、おかあさんはそういって棚の奥に仕舞いこんでいた籠を差し出しました。そして、赤い頭巾を私の頭にかぶせてくれました。 後ろを振り返ると、おかあさんが開いたドアから優しく微笑んで手を振っています。嬉しくなって、手を振り替えしては、数歩進み、また振り返って、名残惜しく、何度も繰り返しました。5回目ぐらいでおかあさんは家の中に入ってしまったようで、振り向いても姿はありませんでした。私もそれ以上は振り返らず、言われたとおりずぅっと真直ぐ進みました。 森の中を延々と歩いて少し疲れた頃、丁度良い倒れ木があったのでそこに座って休むことにしました。ふぅと小さく息を吐いて、おかあさんに渡された籠に掛けられたハンカチを取って中を見てみると、なにも入っていません。ああだからこんなに軽いのかと納得がいきました。おかあさんは少しうっかりしているところがあるので、お見舞いのワインや得意の羊料理を入れ忘れてしまったのかもしれません。せっかく立派な編み籠なのにこれだと寂しいので、何か入れられそうなものはないだろうかと考えます。 その時、突然、薄暗い視界がより濃くなりました。驚いて上を見ると、いつの間に現れたのか、左目を包帯で覆った男の人が私を見下ろすように、立っています。髪も瞳も着ているものも真っ黒で、影が持ち主を置き去りにして好き勝手に歩いているような、そんな感じがしました。 「お兄さん、誰?」 疑問が口を付いて出ると、私の問いかけに男の人は考え込むように少しばかり小首を傾げて、 「怖い狼さん」 と答えました。その男の人には大きな耳も尻尾も無かったけれど、黒ずくめの出で立ちや痩せているところなんかは確かに狼のイメージにぴたとあてはまっています。 狼さんはじっと私を見下ろして、「隣、いいか?」と訊ねました。怖い狼さんのはずなのに、その声音は穏やかだったので、私はつい肯いてしまいました。おとうさんとおかあさん以外の人と喋るのは久しぶりだから少しだけ緊張します。 「狼さんはどこへ行くんスか?」 私の隣に腰を下ろした狼さんに訊ねました。 「さぁ、どこだろうな。美味しい餌があるところがいいかもな。」 「お腹、空いてるんスか?…あ、ごめんなさい。私何も持ってない…。」 せめて籠の中に何か入っていたらよかったのにと残念になりました。おばあさんは優しいからお見舞いの品をちょっと分けてあげるぐらい許してくれるはずです。それから机の引き出しにお気に入りのチョコレートを隠していたことを思い出してますます残念な気持ちになりました。 「かまわねぇよ。それに、俺がへってるのはここだから。」 そういってトントンと心臓の辺りを、指で叩きます。私は、なんだかよく分からなくて、首を傾げます。すると狼さんの大きなてのひらが近づいてきたので、とっさに肩を竦めて視線を落としてしまいました。てのひらは私に届く前にひっこめられたようでした。気分を悪くしただろうかとおずおずと窺うと、狼さんは私の顔を覗き込みます。驚いて、身を引いて顔をそむけてしまったけれど、その後も狼さんが怒っている様子はなかったので少しほっとしました。 「お嬢ちゃんはどこへ行くんだ?」 「おばあさんのところ。お見舞いに行くの。この先をずーっと行ったところにお家があるから、そこに。」 今まであまり表情を変えなかった狼さんがすっと瞳を細めました。その底の見えない黒い瞳に見つめられると、なんだか、喉の奥で変な感じがします。息が詰まって、苦しいような。居心地悪くなってもぞもぞと足を動かしていると、狼さんは立ち上がって、 「見舞いには花が必要だな」 空っぽの籠を見ながら言いました。 狼さんが教えてくれたのは、暗い森が丸く開いたお花畑でした。そこで花を好きなだけ摘んだらいいと助言してくれました。本人は怖い狼さんと言っていたけれど、本当は良い狼さんでした。あの夜の森のような黒い眼だけは、確かに少し怖かったけれど。 あかいろ、あおいろ、きいろ、むらさきいろ。こんなにたくさんの色の花が集まっているのを見るのは初めてで、高揚から耳の裏の辺りが熱くなっていくのがわかります。今、胸に手のひらをあてたら、どくんどくんと鼓動が伝わってきそうです。ずっと奥にキラキラ光るものが見えて、近づいてみるとそれは綺麗に透き通った泉でした。 私の髪と同じ色の花、ギザギザの葉っぱ。今日の空に良く似た青いをした小さな花。泉の近くには、頭巾とお揃いの赤い花が数え切れないぐらい。籠には、この赤い花を入れることにしました。溢れるぐらいにつめました。おばあさんだけじゃなく、おかあさんとおとうさんへのお土産にもしたいなと思いました。そしたらおばあさんに会えないままお家に帰っても大丈夫かな。きっと殴られるだろうけど、でも気が済めば許してくれるかな。そう考えました。 湖はとても澄んでいて、覗き込んだ自分の顔が良く見えます。頭巾を取れば、昨日おとうさんに殴られてできた赤黒い痣も良く見えました。夕食の時、椅子を引いた音がうるさかったことへの罰でした。昨日だけじゃなく、いつもなにかおとうさんとおかあさんの気を損ねては罰を受けました。でも、それはただ私を痛めつけたいだけの理由付けでしかないということは分かっていました。おばあさんが山に捨てられて、もうこの森のどこにもいないということだって私は知っていました。籠の中身が空っぽな理由だって本当は知っていました。 ああ、と気づいたときには遅く、急に身体が重く感じます。ときどきこんな風になります。覗き込む体勢を力の抜けた腕では支えていられなくて、どぼん、と池に落ちてしまいそうです。このまま落ちてしまおうか、とさえ思います。心が急に忙しなく動きだして、身体の内側がバラバラになるよう。髪の毛を掴まれて湯船に沈められた苦しさを思い出して、落ちることは踏みとどまりました。代わりに、背中から落ちるように、ごろんと寝転びます。雲ひとつない青空は、とても寂しいように感じました。 「どうしておとうさんは私をぶつの?」 かすれてしまった呟きに、花が頭(こうべ)を揺らして答えます。 『それはあなたがかわいいからよ』 「どうしておかあさんは殴られてる私を見て笑ってるの?」 『それはお前がかわいいからだよ』 「どうして私は生まれたの」 『それは倖せになるためだよ』 「じゃぁ、どうして二人は私を捨てたの」 『それは…』 ざぁっと強い風が吹きました。閉じかける目蓋の間から覗いた、舞い上がる花びらがキラキラと輝いて。光がとても目映くて。泉よりも焼きつく青い空はぞっとするほど広くて。世界が少しだけ滲みました。身体の中もじわりじわりと滲んでいくようでした。胸の奥に小さな火が灯って、それが大きく大きく膨れ上がるみたい。息苦しくなって、胸の辺りをぎゅっと掴みました。膨れ上がった火は炎になって、私を囲む赤い花のように真っ赤に、真っ赤に、なっていきます。隠してきたはずのものが、燃えて、溢れて、その勢いを止められません。悲しみも喜びも、全部遠くて、全部近い。苦しさから逃げるように、涙が出ました。嗚咽も止まりません。あんまり激しく泣くものだから、息が上手にできなくて。胸はさらにキリキリと捻れて、私自身に訴えかけます。 おとうさんもおかあさんも私のことを好きだと言います。拳を振り上げるだけだはなく、優しく頭を撫でて抱きしめて、眠る前に一緒に本を読んでくれることだってあります。でも、その「好き」や抱きしめられたときの「暖かさ」は砂糖みたいにすぐに解けてしまってかりそめの甘みが尾を引くだけなのです。それ以上満たされることなど、ないのです。 零れた言葉を拾いなおすことは出来ずに、ほどけてゆくばかりの言い訳はなんの力もありません。ごろんと寝返りをうって、花に倒れこんだ途端感じる、より強く馨しい生のにおい。青空にぽっかりと空いた白い穴に向かって手をかざすと、てのひらは薄っすらと赤く色づいて、私自身からも生のにおいを感じます。ああ、私は、どうしようもなく、まだ、生きているんだ。 「どうして私を殺してくれないの」 私は、こんなところで餓えて死に至ったり、獣の餌になるのではなく、おとうさんとおかあさんの手で、ちゃんと殺されるべきでした。だって私は何をされても二人のことが、好きだったから。それが私のすべてだから。例えかりそめだろうと手放すことなんか、絶対にできない。 あらんかぎりに叫び、叫び、叫び、立ち上がって、転がるように、森の中を、獣道を、走って、ただただ真直ぐに、息も絶え絶えに、おとうさんとおかあさんと暮らした家に向かって走り続けました。いっそのこと辿り着けずにこのまま心臓が破裂して死んでしまえばいい。お腹を空かせた獣と出会ってその牙に貫かれてしまえばいい。でもやっぱり、二人のところへ行きたい。二人の手で終わりにしてほしい。それが私が受け取る権利を持った、最後の愛情のはずだから。きっとそれぐらいはこの世界にあるはずだから。 追いつかない呼吸に翻弄されるまま、もたつく足で家の中に入って、おとうさんとおかあさんを呼びます。いつもカーテンを閉め切っているせいで薄暗い家だけれど、走り疲れたせいか今日はいっそう薄暗い気がしました。 「わた、し…おとうさんと、おかあさんっ、に…」 ダイニングの扉を開け、眼に飛び込んだのは黒い服を着た男の人でした。誰だかわからなくて驚いたけど、振り向いたその人はあの時の狼さんでした。あぁ、よかった、ちゃんとご馳走してもらえたのかな、そう思って安心しました。お父さんとおかあさんはよその人にはとても親切なのです。私にするようなことはひとつもしません。だけど、その安心はすぐに別のものに変わりました。 「あぁ、やっぱり、ここのガキだったのか」 肩を上下させて悶えるように息をする私を、狼さんが穏やかに振り返ります。酸素が不足した脳を使って、私は必死に考えます。なにが起こっているかを。だって、狼さんの足元には花のように 「悪いな。全部喰っちまった。」 真っ赤な水溜り。 それに身を浸したおとうさんとおかあさんの身体からは本来収められているはずの中身がはみ出していて、二人は少しも動きません。いろんなところから血が溢れています。ありえない方向へ曲がったちぎれた腕からは骨のようなものが覗いていました。顔も酷いもので、ぐちゃぐちゃでした。おとうさんの目は片方ありません。髪の間からピンク色のものが見えたところで、ようやく、高揚した体からさぁっと体温が引いていきました。言葉なんてなにも出なくて、身体の内側で燃え上がっていたはずの炎も、あの場所から持ってきたものが、全部零れてしまって。でもなにより、私は。 狼さんはゆっくりと私に近づいてきました。それは優雅で、撒き散らされた醜く生々しい肉塊を前にするにはとても似つかわしくありませんでした。こつんと靴音がなるたびに皮膚の内側がパチパチと小さく弾けるような感覚が全身を覆います。 あと一歩というところで足を止めた狼さんは、膝を折って、さきほどのように私の顔を覗き込みます。いいえ、顔、ではなく、私の、瞳を。そらすことは、出来ませんでした。狼さんは微かに首をかしげて、そのうち、満足そうににやりと微笑みました。私のこころのなにからなにまですべてを見透かすようなその笑みを見た瞬間、あっ、と、信じられないぐらいあっけなく弾ける感覚が止み、代わりに甘い痺れが背筋を登ってきました。 トン トン 。 痺れの正体を知る前に、外から音が飛び込んできて、身体がまるで野うさぎみたいに跳ねました。もしもし、と家の入口で声がします。狼さんに焦る様子は無く、超然とした笑みを浮かべていました。それは私が応答するのを促すようでもありました。従うように現実感の無い足元を踏みしめながら、扉の覗き窓を開けました。小さな四角い窓から見える双眸が私を捉えます。扉の向こうの人は、街から来た自衛団だと名乗りました。その人からは私の体が邪魔をして部屋の中は見えないはずです。おとうさんがそう設計したからです。 「この辺りに悪い奴が逃げてきたみたいなんだ。変な人とか、普段見かけない人が来たりしなかったかい?」 優しい色をした双眸を見ながら、私はカラカラに乾いた喉を震わせました。血まみれの両親が、きっと、今、私を、見ています。あの半分潰れた顔で。試されているのだと思いました。暗い森の中、彷徨いながら、枝分かれした岐路を選ぶように。くちびるが、わなないて、ひとつの形を作りました。 「…知らない。誰も来てない。」 口元は欠けた月のような弧を描き、そして甘い痺れは毒のような恍惚に変わって身体中を廻っていきます。緩やかに、あまりにも心地よく。 「おとうさんとおかあさんは?」 「お出かけしてる。また子、お留守番なんス。」 「そうか、いい子だね。ドアには鍵をかけて、知らない人が来たら、絶対に開けてはいけないよ。」 「うん。わかった。」 そう答えると、男の人がにっこりと笑ったのが眼の形でわかりました。けれど、覗き窓を閉めようしたところで少し顔を顰めます。 「…なんだか変なにおいがしないか?」 「おとうさんとおかあさんをびっくりさせようと思って、ちょっと悪戯しちゃったんス。だから、秘密。」 鼻をくんくんと鳴らす男の人に、柔和な声で答えると、優しいその人は「やっぱりいい子じゃなくて悪い子だな」と明るい笑い声を立てて、そのまま帰ってゆきました。すぐに、覗き窓と、念のために鍵も閉めました。 「いいのか。助けてもらわなくて。」 そんなことを言いながら、狼さんはこうなるのは分かっていたとばかりに、にやにやと笑います。 「いいんス」 選んでしまえば言葉にするのは簡単でした。言葉と一緒に、すとん、と胸が軽くなりました。身体の内側で燃え上がっていたはずの炎も、あの場所から持ってきたものが、全部零れてしまって。でもなにより、私は、あの血だまりで凄惨な死を遂げたあの人たちを見て、安心したのです。途切れた未来に。悲劇も喜びもめでたしめでたしもない空白に。そう、あの籠の中みたいになんにもないのです。だってもうただの肉の塊だから。何一つ私にしてくれやしない。もう二度と、あるかどうかも分からないものを祈ったり乞うたりしなくていいのです。 狼さんは口の端を上げたまま、まだ乾いていない指の血を擦り付けるように私の頬を撫でました。 「…私も食べるんスか?」 「俺はガキには興味ないんでね」 狼さんは鼻で笑って言いました。でもおとうさんやおかあさんがするような、嫌な感じはしませんでした。きっと悪意がないからだろうなぁと思ったけれど、人殺しに悪意がないというのも可笑しな話でした。 「これからどこいくんスか?」 「俺はこう見えて『大喰らい』なんだ。次の食事を探しにいく。」 「私も連れてって」 黒い目が品定めするように私を見ます。夜の森の瞳。でも今は全然怖くない。それどころか、その森の中に入れたらとさえ、思うのです。 「狼さんはガキには興味ないんスよね、だったら」 私は続けます。なんだか自然と微笑んでしまいました。 「私が大人になったら食べてほしいな」 狼さんはくつくつと喉を鳴らして片目を細めて応えました。 「お前、やっぱり面白ぇな」 じゃあ約束だ、と言って左の小指を差し出しました。それはちょうど膝を折った狼さんの顔の前にあるので小指を見ると同時に綺麗な面立ちがよく見えました。見えている方が夜の森の色ならば、包帯で隠されたほうの目はどんな風なのだろう。ひょっとしたらずっとずっと悲しい色をしているのかもしれないと、思いました。狼さんの鼻がよく効く様に、私も微かに嗅ぎ取れるものが、あるのです。彼と私は同じではなく、きっと違う生き物です。それこそ、人と獣のように、別のものです。でもだからこそ、私は彼と居るべきでした。 狼さんの小指に、彼のものと比べるとまだまだ小さな小指を絡めました。狼さんの手に付いた血が私の指にも少しだけ、うつりました。 籠の中から赤い花を掴んで、おとうさんとおかあさんの体からはみ出た内臓の上に蒔きました。もうここには戻ってきません。私が最後に行くところは狼さんのお腹の中だからです。彼はこの肉塊がしてくれなかったことを私にしてくれるでしょう。それは嬉しくて、少し悲しくて、限りなく救われたような気がしました。彼は『望み』という途方も無い光と餓えから、私を逃してくれました。不毛な期待も陰惨な希望もただ続くだけの未来も食べてくれたお礼に、私の脈打つ心臓を差し出しましょう。そして最後はあなたの血と肉となって寄り添えたら、きっとそれは素晴らしい。 誰にも聞こえないような小さな声でさよならを言いました。落とした花も言葉も、両親への餞などではありませんでした。決して。 扉の前で私を待つ狼さんに駆け寄りました。狼さんはとおい昔からそうであったかのように自然に私の手を取ったので、驚きました。今まで触れたことの無い感触のてのひらは、握り締めるわけではなく、ただやわらかく私を包みます。 開いた扉の外を、ざぁっと風が吹いてゆきました。 |